伝記
アメデオ・アヴォガドロは、1776年8月9日、当時のサルデーニャ王国のピエモンテ州トリノに生まれた物理学者・化学者である。正式にはロレンツォ・ロマーノ・アメデオ・カルロ・アヴォガドロと称した。父フィリッポはサルデーニャ王国の要職にある法律家で貴族であり、母はアンナといった。生家はピエモンテの古い家柄で、アメデオは若いころ父と同じ道を歩んだ。大学では法学と哲学を修め、1796年に教会法に関する論文で学位を得て卒業し、その後の数年間は弁護士として法律事務所を開いていた。
しかし数学と物理学への関心は抑えがたく、1800年ごろから独学で研究を始めた。1803年には電気工学に関する最初の論文を提出し、1804年にはトリノの科学アカデミーの通信会員に選ばれ、1819年には正会員となった。1809年にはヴェルチェッリ王立大学の物理学教授に就き、ここで精力的に研究を進めた。法律家から科学者へという転身は、遅い出発であったとされる。
1811年、彼はフランスの科学雑誌に『物質の基本粒子の相対的質量とこれらの化合比率を決定する一つの方法』と題する論文を発表し、同温・同圧・同体積の気体には種類によらず同数の分子が含まれるという考えを示した。当時、ジョン・ドルトンは単体の気体も原子からなると考えており、水素2容積と酸素1容積から水蒸気2容積ができるという実験結果を説明できなかった。アヴォガドロは、気体が同種の原子が結びついた分子からなると考えることで、この結果を直接説明した。ただし論文は難解で、当時の国外では無名であったため、学界にはほとんど相手にされなかった。法律家出身ゆえの文章の難しさも一因と言われる。1811年から1821年には全4巻の『可秤物質の物理学』も著している。1814年には単体の気体の密度や化合物の構成を扱う続編の論文を、1821年にも化合比率の理論と分子の質量の決定を論じた論文を発表した。当時は原子と分子の用語が混用されていたが、彼は両者を区別し、質量と重さも区別して論じた。
1820年、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世がトリノ大学にイタリア初の数理物理学教室を設け、彼は初代教授に就任した。電気、毛管現象、比熱、熱膨張などを研究したが、1821年の革命運動に慎重ながら関わったことなどもあって、王の退位直後の1822年に政治的な問題から教室は閉鎖され、わずかな年金を受けて再び弁護士の仕事に戻った。実験は続けていたという。1834年(1833年とする資料もある)に王政復古で教室が再開されると教授に復帰し、1850年まで在職した。この間の研究は気象学、計測学、統計学、度量衡に及び、公教育や統計の委員会にも加わって、メートル法の採用を後押しした。1848年には公教育会議の議員に選ばれている。
1856年7月9日、彼はトリノで没した。生前はほとんど国外に知られなかったが、没後の1858年にスタニズラオ・カニッツァーロが論文で彼の仮説に光を当て、1860年にカールスルーエで開かれた国際化学者会議でのカニッツァーロの発表を受けて、ようやく再評価が始まった。アンペールが1813年に独立して同様の考えに達していたことも知られるが、気体反応の法則を最初に定式化したのはアヴォガドロである。その名は今日、アボガドロの法則やアボガドロ定数として残り、アボガドロ数は国際単位系を定める七つの定数の一つにも数えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・カスパー・ツォイス (1856年没)
- ジョセフ・フォン・ハンマー・プルグスタル (1856年没)
- カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキー (1856年没)
- Theodore Guerin (1856年没)
- マリーア・エリザベッタ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ (1856年没)
同じ地域に関係する人物
- エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア=カリニャーノ (1709年没)
- ヴィットーリオ・アメデーオ3世 (1796年没)
- ジュゼッペ・ジャコーザ (1906年没)
- ヴィットーリオ・アメデーオ2世・ディ・サヴォイア=カリニャーノ (1780年没)
- チェーザレ・ロンブローゾ (1909年没)