伝記
リュドヴィート・シュトゥールは、1815年10月28日に生まれ、1856年1月12日に没したスロバキアの言語学者、詩人、哲学者、政治家である。生まれたのは当時ハンガリー王国の上部(北部)ハンガリーと呼ばれた地域のウフロヴェツ村で、現在はスロバキア共和国にあたる。福音ルター派の教師でオルガニストでもあった父サムエルと、母アンナの子であり、福音派の教会で洗礼を受け、父からラテン語の手ほどきを受けた。父サムエルは1810年から1812年にかけて、のちにチェコの歴史家となるパラツキーに学んだ人物で、謹厳で博識であったと伝えられる。
1827年にハンガリー北西部ジェールの学校に進み、教師ペッツが勤勉さと聡明さを見て取り、古代の著作家だけでなくスラヴの作家へも生徒の目を向けさせたことが、スラヴ世界への関心を呼び覚ましたという。1829年からはブラチスラヴァ(当時のポジョニ)の福音派のリセで学び、チェコ・スロバキア文学の学科や、学生が作る教育協会に加わって積極的に活動し、1835年の秋には協会の会長となった。1831年にはじめて詩を作っている。1834年には生活難から学業を一時中断して故郷に戻り、貴族の家で働いたが、同年に学業へ戻り、のちにはこのリセで文学やスラヴの歴史を教えた。1837年には学生の騒ぎが原因で協会が活動を禁じられたが、1週間後に再開され、研究所も設けられた。
1838年に、プラハを経てドイツのハレ大学に留学し、言語学、歴史、哲学を学んで、ヘーゲルやヘルダーの影響を受けた。1839年の春にはラウジッツを長く旅してスラヴ人たちと交わり、チェコ語で旅行記を著した。1840年にポジョニへ戻り、リセで文法とスラヴ史を教えた。1843年、地方ごとに異なる方言の中から、中央スロバキア方言に基づく標準文章語を体系化する決意を固め、スロバキアの国民運動の指導者らと新しい標準語の導入で合意した。同年末に職を奪われると、教え子22人が抗議して学校を去り、うち13人はレヴォチャの福音派の学院で学び続けた。1845年には新しい標準語で書いた「スロバキア民族新聞」が創刊され、1847年にはカトリック側とプロテスタント側がともに新標準語の使用に合意した。この言語は現在のスロバキアの公用語として残っている。
1847年10月、ハンガリー議会の議員に選ばれ、小学校でのスロバキア語使用などを訴えた。1848年5月には請願書「スロバキア民族の要求」で、スロバキア議会の開設、スロバキア語の公用語化、自治権の拡大、普通選挙、報道と集会の自由、農民の解放などを求めた。ハンガリー政府は指導者らの逮捕状を出し、彼はプラハへ逃れた。同年9月にはウィーンでスロバキア国民会議を旗揚げし、独立を宣言して武装蜂起を呼びかけた。義勇兵は1849年初めにコシツェやプレショフを占拠したが、ハンガリー軍に敗れ、交渉も実らず、11月に部隊は解散した。
蜂起の挫折後は、スラブ民俗学の研究と執筆に専念した。1851年に弟カロルと父を、1853年に恋人アデラと母を相次いで亡くした。1855年12月22日、モドラ近郊の狩猟中に誤って銃弾を受けて負傷し、翌年1月12日に死去した。その名は、スロバキアの紙幣の肖像や、小惑星の名、国が設けた勲章にも残されている。町の一つが1948年に彼にちなんでシュトゥーロヴォと改称されたほか、国民の復興運動の指導者として、また標準語の整備者として、スロバキア史に欠かせない存在とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルク・フォン・シナ (1856年没)
- オーギュスト・シャプドレーヌ (1856年没)
- ウィリアム・ヤレル (1856年没)
- ヘンリー・ハーディング (初代ハーディング子爵) (1856年没)
- ミチェル・フェリックス・デュナル (1856年没)
同じ地域に関係する人物
- Ludovit Fulla (1980年没)
- ミハル・コヴァーチ (2016年没)
- ヤーン・ツィケル (1989年没)
- Martin Benka (1971年没)
- グスターフ・フサーク (1991年没)