伝記
ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは、1792年12月1日(ユリウス暦では11月20日)にロシアのニジニ・ノヴゴロドで生まれた数学者である。家は裕福ではなく、父イワン・マクシモビッチは土地測量に関わる小さな役所に勤め、母プラスコヴィヤ・アレクサンドロヴナは子どもたちの教育に心を砕く聡明な女性だった。父は彼が7歳の1800年に世を去り、一家は行政の中心地でもあるカザンへ移った。母は三人の息子に最良の教育を受けさせようと、帝国ギムナジウムのあるこの町を選んだとされる。1798年に開校したこのギムナジウムは優れた蔵書を備え、言語、論理学、幾何学、三角法、力学、物理、化学、築城術、絵画、フェンシングやダンスに至る野心的な教育課程を持っていた。授業料を払う余裕はなかったが、難しい入学試験に合格した三兄弟は、当局の奨学金を得て学ぶことができた。
ギムナジウムでは若い数学教師グリゴリー・カルタシェフスキーと出会い、ルジャンドルの『幾何学原論』などに触れた。1807年の夏に学業を終えてカザン大学に入学したときには、15歳にして仏・独・ラテン語の学術書を読みこなせたという。当初は医学を志していたが、まもなく数学へ進路を改めた。当時の大学では、数学者で天文学者のステパン・ルモフスキーが学区の監督官を務め、著名な外国人教授を招いていた。その一人がドイツ人のマルティン・バルテルスで、ゲッティンゲン大学で数学者ガウスと面識があり、第一級の数学者であると同時に優れた教育者でもあった。ロバチェフスキーは彼が開いた優秀な学生向けの特別講義に熱心に出席し、数学への情熱を深めた。講義ではモンチュクラの『数学史』を通じてユークリッドの『原論』と有名な第五公準も扱われたという。1810年には、クラクフ大学のヨーゼフ・ヨハン・リットロウが天文学教授として招かれている。ロバチェフスキーは在学中に古代史、ギリシャ語、ラテン語、ロシア文学、哲学、法学、化学など実に多くの科目を修め、1811年に物理学と数学で優秀な成績を収めて卒業した。天文学の素養も身につけていた。
その後はカザン大学に残って教壇に立ち、21歳で教授となった。1827年から1846年にかけては学長も兼ね、20年以上にわたって大学の運営と後進の指導に力を注いだ。レーニンの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフが、ロバチェフスキーの推薦でドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師になったことも伝えられている。
研究の面では、1826年に幾何学の基礎に関する論文をカザン大学の物理・数学科に提出したが、刊行されないまま失われた。1829年に大学の学報でその学説を発表し、さらに『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』の中で詳しく展開した。1840年にはベルリンで著作を刊行している。こうした成果によって、ヤノーシュ・ボヤイとは独立に非ユークリッド幾何学の創始者となり、その新しい幾何学の自然的な根拠についても深い考察を残した。彼が築いた双曲幾何学は、ロバチェフスキー幾何学とも呼ばれている。1856年2月24日(ユリウス暦で2月12日)、カザンで亡くなった。ニジニ・ノヴゴロド国立大学には、その名が冠されている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョセフ・フォン・ハンマー・プルグスタル (1856年没)
- ウィリアム・バックランド (1856年没)
- マンマ・マルゲリータ (1856年没)
- カール・ツー・ライニンゲン (1804-1856) (1856年没)
- ルイジ・カニーナ (1856年没)
同じ地域に関係する人物
- Sara Sadiyqova (1986年没)
- Alexander Vvedensky (1941年没)
- ナジェージダ・ドゥーロワ (1866年没)
- アレクサンドル・ブートレロフ (1886年没)
- アレクサンドル・アルブーゾフ (1968年没)