伝記
ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカは、1804年6月1日に生まれたロシアの作曲家である。ロシア国外でも広い名声を得た作曲家の一人で、「近代ロシア音楽の父」と呼ばれる。貴族で富裕な地主の家庭の第2子として生まれ、子どもの頃から音楽に興味を持っていた。少年期に体験した祖国戦争や、農奴のオーケストラが演奏した民謡の編曲が、のちの彼の音楽に影響を与えたといわれる。
経済的に恵まれていたため、若いうちからピアノのほか、ヴァイオリン、声楽、指揮、作曲を熱心に学ぶことができた。ピアノはジョン・フィールドに習っている。フィールドは、イタリア人作曲家クレメンティに伴われてサンクトペテルブルクを訪れ、貴族たちにピアノを売り込むと同時に、ピアノの演奏技術をロシアに広めた人物である。ただし体系的な音楽教育はごくわずかしか受けておらず、同じ世代の作曲家たちよりも、むしろプーシキンら当時の詩人や画家と交遊を結んだ。1824年からサンクトペテルブルクの運輸局に勤めたが、1828年に辞職し、その後3年間イタリアに滞在してドニゼッティやベッリーニの影響を受けた。続いてドイツに遊学し、ベルリンでジークフリート・デーンについて作曲を学んだ。1834年に父が亡くなったため、ロシアに帰国した。
外国を回るうちに、彼にはロシア人としての自覚が芽生え、ロシア的な作品を書きたいという願いが強まっていった。当時のロシアでは、民族音楽に関心を示す者はほとんどおらず、貴族階層はドイツ、フランス、イタリアの作品を輸入していた。そうしたなかで、まったくロシア的なオペラを最初に書こうとしたのがグリンカだった。1836年にE・F・ローゼン男爵の依嘱で作曲した『皇帝に捧げた命』は大成功を収め、幅広く受け入れられた最初のロシア語オペラとなった。一部はロシア民謡に基づくが、主要部分は伝統的なイタリア様式で構成されている。ソビエト時代には政治的な理由から、主人公の農民の名をとって『イワン・スサーニン』として知られた。1837年から39年までは帝室礼拝堂聖歌隊の監督を務めた。
第2作のオペラ『ルスランとリュドミラ』は1842年に作曲されたが、上演のまずさもあって好意的には受け入れられなかった。民謡の自由な活用や、不協和音、半音階、全音音階の独創的な用い方が特徴で、国民楽派的な作風は次の世代のロシア人作曲家に受け継がれた。1844年から再び西ヨーロッパへ演奏旅行に出て、フランスに9か月滞在してベルリオーズと交遊した。1845年の夏にはスペインへ渡り、バリャドリッドの村でスペイン民謡を集め、マドリードで『ホタ・アラゴネーサの主題による華麗なるカプリース』を作曲した。続いてワルシャワで、ロシア民謡に基づく幻想曲『カマリンスカヤ』を書き、これはロシアの民族的素材を使った最初の管弦楽曲として知られる。1852年から54年にはパリを中心に西ヨーロッパに滞在したが、クリミア戦争の勃発で帰国した。
彼は数か国語に通じた旅行家で、各国の民俗音楽も自作に取り入れた。国内では保守的な貴族層から高い評価を得られなかったためとも言われるが、若い音楽家たちからは尊敬を集めた。1857年、対位法の研究で滞在していたベルリンで客死し、遺体はペテルブルクに運ばれてアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された。その音楽は、のちの「ロシア五人組」に重要な影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- アントニオ・マリア・エスキベル (1857年没)
- ジョン・リンド (1857年没)
- ヴァシーリー・ペロフスキー (1857年没)
- ジョージ・ケイリー (1857年没)
- フランソワ・ヴィドック (1857年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハネス・リプシウス (1926年没)
- アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム (1944年没)
- エリック・ドルフィー (1964年没)
- Carl Sigismund Kunth (1850年没)
- ロベルト・シュトルツ (1975年没)