伝記
オーギュスト・コントは、1798年1月19日に南フランスの地中海に面した都市モンペリエで生まれた、フランスの社会学者・哲学者・数学者である。父は徴税官のルイ・オーギュスト・コント、母は旧姓ロザリ・ポワイエで、コントはその長男だった。両親は熱心なカトリック信者で王党派を支持しており、立派なカトリック信者に育つことを願って、聖母マリアや聖人たちにちなむ長い名をつけた。しかし、革命期のモンペリエではギロチンが据えられ、王党派や司祭が処刑され、コント家の親族にも犠牲者が出た。革命後は初等教育が整っておらず、幼い頃は近所の老人から読み書きや算術を習ったという。
1806年にリセへ寄宿生として入り、軍隊式の寄宿生活のなかで文系と理系の双方で優秀な成績を収めた。1812年にはエコール・ポリテクニークの入学に必要な学力を備えていたが、年齢資格を満たさず、しばらくリセにとどまって、1814年に入学試験に合格した。この間、ナポレオン体制のもとでの息苦しい教育を受けるなかでカトリックの信仰を捨て、やがて共和主義者になっていったとされる。エコール・ポリテクニークでは数学を専攻し、フーリエやラグランジュら優れた教授の講義を楽しんだ。ところが1815年にナポレオンが敗れて王政復古となると、王党派の両親と異なり革命に感化されていたコントは強い憤りと絶望を覚えた。軍隊式の生活への不満もあって反抗的な学生となり、復習教師とのトラブルが原因で、卒業を前に退学処分を受けた。
その後は復学せず、いったんモンペリエに帰った。ふたたびパリに戻ると、1816年6月の日付を持つ短編『省察録』を書き、革命の失敗や復古王政の反動への嫌悪を表明した。この頃、コンドルセの影響を強く受けている。やがてアンリ・ド・サン=シモンの助手(秘書)となって、科学的な手法による「社会再組織」の考え方を学んだ。助手になった時期は1816年8月とも1817年からともされる。サン=シモンが破産状態にあることを知ると俸給を辞退し、数学の家庭教師をしながら師を支えたという。しかし1824年に師と絶縁した。1822年には『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』を書いた。自立後は数学の家庭教師で生計を立て、1826年に自宅で実証哲学の講義を始めた。
1830年から1842年にかけて、全六巻の『実証哲学講義』を刊行した。人間の知識は神学的・形而上学的・実証的の三段階を経るとし、最後の段階で真の予見が可能な科学的知識に至るとした。また実証科学を、単純なものから複雑なものへ、数学・天文学・物理学・化学・生物学・社会学の六つに分類し、社会学を社会静学と社会動学に分けた。「社会学」という名称を創始し、彼の影響を受けたイギリスのハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られ、「社会学の父」と称される。ほかに『通俗天文学の哲学的汎論』『実証精神論』などの著作がある。1841年から1847年にはジョン・スチュアート・ミルと親交があった。生涯は在野の学者として過ごしたが、晩年には交際していた女性クロティルド・ド・ヴォーの死によって宗教的な傾向を強め、「人類教」を唱えて自ら大祭司となった。1857年9月5日、パリで病没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・クリスチャン・ダール (1857年没)
- Jozsef Szen (1857年没)
- フレデリック・スペンサー (第4代スペンサー伯爵) (1857年没)
- ヴァシーリー・ペロフスキー (1857年没)
- Sophie Swetchine (1857年没)
同じ地域に関係する人物
- セギュール夫人 (1874年没)
- ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール (1710年没)
- イサベル2世 (スペイン女王) (1904年没)
- アンドレ・シェニエ (1794年没)
- ジャン・バラケ (1973年没)