HISTORICAL PERSON · 815年没

ティデ・ソンツェン

吐蕃の王で、セナレクの綽名を持つ。仏教を篤く信仰して経典の翻訳事業に力を入れ、『デンカルマ目録』を作らせ、サンスクリットの対訳チベット語を定める欽定訳語も制定した。一方で僧侶が特権階級化した。

生涯
815年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ティデ・ソンツェンは、古代チベットの吐蕃の王である。761年に生まれ、815年に亡くなった。在位は800年から815年とされるが、即位を797年や804年とする説もある。セナレクの綽名で知られ、先代のティソン・デツェンの三男で末子にあたる。歴代の王では第39代とされ、先王ムネ・ツェンポと、次の第40代ラルパチェンとの間に位置する。

即位の経緯は、史料によって混乱がある。ティソン・デツェンは797年に退位してズンカルに住み、次男のムネ・ツェンポに王位を譲ったが、ムネは母に毒殺されたとも伝えられる。ムネに子がなかったため、旧唐書もチベット側の史料も、弟のティデ・ソンツェンが継いだと伝えており、遅くとも804年には王位にあった。即位したとき幼かったため、大臣の多くは王の資質を疑った。そこで王子を座らせて頭に多くの宝飾を載せたところ、体がその重さに耐えられず首を傾けてふらついたが、それがかえって威厳があると受け取られて、王位を継いだという。僧侶のニャン・ティンゲジンが王位への推戴を唱えたともされる。王を補佐したのは経験豊かな四人の大臣で、そのうち二人は仏教僧であり、彼らは先代までの政策を踏襲した。王は異なる氏族から四人の妻を迎え、五人の息子をもうけたが、長男は僧となり、末の二人は幼くして亡くなった。

功績は二つに大別される。一つは、仏教を篤く信仰して、経典の翻訳事業に力を入れたことである。サムイェー寺にインド僧を招き、インド僧を中心にチベット僧が補助する形で翻訳が進められ、多量の経典が訳された。訳された経典の目録も作られ、これがチベット仏教の最初期の大蔵経目録とされる『デンカルマ目録』である。ラサの近くにカルチュン寺も建てた。仏教への反対があったため、王は全土から代表者や臣下を集めて仏教を支持する誓約の文書を作らせ、出席者全員が署名した。その誓約を記した石柱はカルチュン寺の前に建てられ、現存している。もう一つは、欽定訳語の制定である。サンスクリットに対応するチベット語を国家として定めて訳語を統一し、翻訳者ごとの不統一をなくした。この事業は816年とする記述もあり、文語チベット語が古典チベット語へ整えられる契機になったという。おかげで、サンスクリットの原典が失われた経典でも、チベット語訳から原文をかなりの水準まで復元できる。一方で、仏教への過度な優遇と保護の結果、僧侶は特権階級となり、国政にも影響を与えるようになった。

対外面では、799年から803年にかけて、チベット軍は唐と戦い、塩州、麟州、維州、雅州、巂州などで戦闘があったが、804年からはラサと長安の間を使節が往来するようになった。ただし正式な条約は結ばれなかった。805年に徳宗が没すると、吐蕃から金銀や布、牛馬が葬儀に贈られた。西ではアラブへの攻撃を続け、サマルカンドを包囲したともいわれ、トルキスタンのチベット総督が、金と宝石の像をカリフのマアムーンに贈り、像はのちにカアバへ送られたという。

王は815年に没したとされるが、『青史』は814年とする。仏教に反対し短気であったウードゥムツェン(ランダルマ)は退けられ、王位は三男のラルパチェンに渡った。ピョンギェ近くの歴代王の墓地には王を記念する石柱が立ち、一部は判読できないが、いくつかの歴史的な出来事を裏づけ、唐との戦いが王の即位とともに始まったことを記す。

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