HISTORICAL PERSON · 1858年没

ロバート・ブラウン

スコットランド生まれの植物学者。細胞核を発見し、オーストラリアの多くの植物を命名。花粉中の微粒子の不規則な運動を詳しく記録し、ブラウン運動の名が残る。

生涯
1858年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(モントローズ)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ロバート・ブラウンは、1773年12月21日にスコットランドで生まれた植物学者である。ポルトガル語版はモントローズの出身とする。オーストラリアや東南アジアでの標本収集で知られ、細胞核の発見と、のちに彼の名で呼ばれるブラウン運動の観察で名を残した。医学を学び、1795年に外科医としてイギリス陸軍に入った。

1800年12月、マシュー・フリンダーズが指揮するインヴェスティゲーター号に博物学者として乗り組むことになった。同船はオーストラリア沿岸の測量を目的とする探検航海の最終準備をしていた。長く波乱の多い航海ののち、1801年12月に現在の西オーストラリアのキング・ジョージ湾に到着した。ブラウンは船上でフリンダーズに同行して沿岸の探査を続け、航海が1803年6月にシドニー港で終わったあとも、1805年5月までオーストラリアに残った。3年半にわたって訪れた地域の植生と植物相を精力的に調べ、約3,400種を集めたが、その約2,000種は当時の科学にとって未知のものだった。ただし標本の多くは、それを運んでいたポーパス号が航海中に難破して失われた。

1805年にイギリスへ戻ると、以後4年間を収集品の研究と整理に充て、新種や新属の記載を数多く発表した。オーストラリア西部だけでも、約1,200の新種を記載したのはブラウンだという。1810年には成果を『ニューホランド植物誌序説』にまとめた。これはオーストラリアの植物相についての最初の体系的な記載である。同年、ジョゼフ・バンクスの司書をヨナス・ドリアンデルから引き継ぎ、1820年にバンクスが没すると蔵書と植物標本を受け継いだ。1827年にはそれらを大英博物館に寄贈し、バンクス植物コレクションの管理者に任じられた。1811年には王立協会のフェローに選ばれている。論文には、1811年のガガイモ類とプロテア科に関するもの、1812年のシダの新属ウッドシア属の記載、1814年にフリンダーズの航海記に寄せたオーストラリア植物の地理と分類についての総説、1816年のキク科に関する観察などがある。

1827年(1828年とする記述もある)、顕微鏡で花粉やコケの胞子を水に浮かべて調べていて、花粉の粒から出てきた微粒子が不規則に動くことに気づいた。当初は花粉の中にある生命の源が花粉自体を動かすのだと考えたが、同じ現象が粉末の粒子にも起こることを確かめ、微細な粉末なら生物に由来しなくても生じることを見いだした。ブラウン以前にもこの運動を観察した学者はいたが、最も詳細な記録を残したのが彼だったため、現在もブラウン運動と呼ばれる。ただし本当の説明は見つけられず、ブラウン運動の謎がアインシュタインにより解明されるのは、ブラウンの没後であった。1833年ごろには細胞核を発見し、真核生物の細胞にそれがあることを初めて記したとされる。

1837年に大英博物館の博物学部門が三つに分かれると、植物学部門の初代管理者となり、亡くなるまでその職にあった。1839年には王立協会からコプリ・メダルを授与された。1858年6月10日にロンドンで死去し、後任にはジョン・ジョゼフ・ベネットが就いた。オーストラリア産の草本ブルンソニア属や、ユーカリの一種をはじめ多くの種の名に、その名が残っている。

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