伝記
クラテロスは、紀元前4世紀初めのマケドニアで、国王アルケラオス1世の殺害に関わったとされる人物である。クラテウアスとも呼ばれ、ギリシア語ではΚρατερόςと綴る。生年は分かっておらず、没年は紀元前399年とされる。王族の出ではなく、家族関係についても何も知られていない。ただ、マケドニア貴族の一員だった可能性が指摘されている。王の小姓であり、アルケラオス1世の愛人であったと伝えられる。
アルケラオス1世の死については、古代の著作家が異なる説を伝えている。シチリアのディオドロスは、王が狩りの最中に、寵愛していたクラテロスによって誤って射られ、在位7年で世を去ったと記す。これに対してアリストテレスは『政治学』の中で、復讐による殺害だったと述べる。アリストテレスによれば、アルケラオスはクラテロスに娘の一人を嫁がせると約束しながら、のちに娘たちを別の相手に与えてしまった。長女はエリメイアの王シッラスに、次女は王自身の息子アミュンタスに嫁がされ、その背信と二人の恋愛関係のもつれが殺意の原因になったという。この説では、ラリサのヘッラノクラテスとデカムニコスという二人の廷臣も、それぞれ私的な動機から殺害に加わったとされる。別の伝えでは、王から辱めを受けた恨みが動機だったともいわれる。
さらに第三の説が、プラトンの作と伝えられてきた対話篇『第二アルキビアデス』にある。真の作者は不明だが、この説ではクラテロスは権力を望んで王を殺し、王位に就いたものの、数日のうちに他の者に殺されたとされる。王位にあった期間は3、4日とも、数か月ないし数日ともいわれ、一定しない。王位を奪ったあと、他の王位を狙う者たちによって殺されたとする記述もある。
クラテロスの後には、アルケラオスの息子オレステスが王となり、リュンケスティス家のアエロポスが後見役の摂政になったと伝えられる。このことから、クラテロスはリュンケスティス家の助力で倒されたのではないかという推測もある。その一方で、現代の研究者のあいだでは、クラテロスが実際に王になったという話そのものを疑う意見が強い。ニコラス・ハモンドは、彼が王だったという考えを「明らかに不合理」と評した。ロバート・エリントンなども、クラテロスが統治を引き継いだことに否定的である。こうした理由で、現代のマケドニア王の一覧にクラテロスは載せられていない。古代のエウセビオスの王の一覧にも、この名は見えない。
こうしてクラテロスは、アルケラオス1世の死をめぐる謎の中心に立つ人物として名を残した。事故だったのか、復讐だったのか、野心によるものだったのか、古代の伝えは一致しない。紀元前399年に没したとされるが、その最期の事情もまた、確かなことは分かっていない。
同じ年に亡くなった人物
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