HISTORICAL PERSON · 1859年没

イザムバード・キングダム・ブルネル

イギリスの技術者。グレート・ウェスタン鉄道の橋・トンネル・駅舎などを設計し、広軌を採用した。大型蒸気船も建造し、その名はブルネル賞に残る。

生涯
1859年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ウェストミンスター)
出生地
イギリス連邦(ポーツマス)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

イザムバード・キングダム・ブルネルは、1806年4月9日、イギリスのポーツマスに生まれた技術者である。父は有名な技術者サー・マーク・イザムバード・ブルネルで、フランス革命を逃れてイギリスに渡った人物とされる。ちょうどそのころ、父はポーツマスで王立海軍の造船所に滑車工場を造る仕事をしていた。教育はイギリスのホーヴ、パリのアンリ4世校、ノルマンディーのカーン大学にまたがって受けた。名の「イザムバード」は「アイザムバード」、姓の「ブルネル」は「ブリューネル」と書かれることもあるが、英語読みではブルーネルとなる。

20歳で父のテムズ川のトンネル工事に技師として加わった。ロザーハイズとワッピングを結ぶこの工事は最も困難で危険な条件下で掘り進められ、父の設計した掘進用のシールドが作業員を崩落から守ったものの、重大な出水事故が2度起きて作業は長く中断した。最後の事故は1828年で、年長の坑夫2人が亡くなり、ブルネル自身も大けがを負って約半年を療養に費やし、その仕事から離れた。この療養中に、ブリストルの橋の計画を始めている。のちのクリフトン吊り橋である。ブルネルが4つの設計案を委員会に出したところ、委員長のトマス・テルフォードがすべてを退けて自分の案を示したが、世論の強い反対で再度の設計競技が行われ、ブルネルの案が勝ったとされる。工事は1831年に始まったが、資金難で中断し、橋の完成は彼の死後の1864年になった。なお、のちの設計変更が大きかったため、ブルネルの設計どおりかどうかは疑問視する歴史家もいる。

1833年、ロンドンとブリストルを結ぶグレート・ウェスタン鉄道の技師となり、橋梁、トンネル、駅舎を設計して監督した。安定性と乗客の乗り心地を改善するため、2140ミリの広軌を採用したことでも知られる。優れた鉄道車両や施設に贈られるブルネル賞は、彼に由来している。管の中を外部の機関で排気して低圧にし、列車の後方からの空気で走らせる真空チューブ列車にも挑戦し、1847年から試験を行って、1848年の2月から9月まで運行した。しかし、気密の問題や、通常の蒸気機関の3倍近い費用などで不成功に終わったとされる。

船では、大西洋横断のために1837年に当時世界最大の蒸気船「グレート・ウェスタン」(1319トン)、1843年に鋼製の船体の「グレート・ブリテン」(3443トン)を造った。1852年にはさらに巨大な「グレート・イースタン」(22500トン)を建造している。同船は造船の開始時から事故や会社の倒産といった不運に見舞われ、処女航海でも事故で機関士6人が死亡した。客船としては失敗に終わったが、海底ケーブルの敷設船として使われ、大西洋横断電信ケーブルの敷設に多大な功績を残した。しかし、試運転中の事故の知らせを病床で聞いたブルネルは、そのまま1859年9月15日に没し、同船のその後を知ることはなかった。クリミア戦争の際には、妹の婿からの依頼で、木造プレハブ工法の病院を5か月で建築した。2002年にBBCが行った「100名の最も偉大な英国人」の投票では第2位となった。2006年には生誕200周年を記念した2ポンド硬貨が発行され、2012年のロンドンオリンピック開会式でも、ケネス・ブラナー演じるブルネルが第1部の狂言回しを務めた。

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