伝記
クレーメンス・フォン・メッテルニヒは、1773年5月15日に、ドイツのトリーア選帝侯領の都市コブレンツで、メッテルニヒ伯爵家に生まれたオーストリアの外交官、政治家である。父ゲオルクは外交官で、母はマリア・ベアトリクスといった。長男で、姉パウリーネが一人いた。幼いころの教育は母が受け持ち、フランスに近い土地柄から、ドイツ語よりフランス語を上手に話したという。10代でフランスのストラスブール大学に入って法学や外交学を学んだが、フランス革命が勃発すると、革命軍はアルザスやラインラントを占領した。この経験と、のちに激化するナポレオン戦争は、ナショナリズムに対する強い警戒心を彼に育んだとされる。
1790年、両親の指示でストラスブールを離れ、フランクフルトで行われる皇帝レオポルト2世の戴冠式に参加した。17歳でカトリック系伯爵団の式部官に任命され、プロテスタント系の式部官と二人で式を仕切る役を務め、この経験が後に多くの要人との縁をもたらした。父がオーストリア領ネーデルラント総督府の公使に任命されると、マインツの大学で学びながら、休みにはブリュッセルで父の仕事を手伝った。1792年にはフランツ2世の戴冠式も取り仕切り、革命戦争が本格化すると、伝令役として戦場を駆け回った。1794年には軍費調達のため渡英し、国王ジョージ3世やピット首相、フォックスらに革命戦争の現状を説いた。保守主義の思想家エドマンド・バークと懇意になったことは、彼の保守思想にも影響を与えたという。その後、一家はウィーンに逃れ、彼はカウニッツ公爵の孫娘エレオノーレと結婚し、侯爵に封じられて高級官職への道が開けた。
1797年末に始まったラシュタット会議にオーストリアの全権大使として臨み、その後ドレスデン、ベルリン、1806年にはパリへと大使として派遣された。1809年に外相となり、1810年にはナポレオンと皇女マリー・ルイーズの結婚の仲介をした。しかしナポレオンがモスクワ遠征とライプツィヒの諸国民戦争に敗れると、反ナポレオン的な国際秩序の形成に力を尽くした。1814年に始まるウィーン会議ではオーストリア外相として中心的な役割を果たし、勢力均衡と正統主義にもとづくヨーロッパ秩序をめざした。会議の後も、ドイツのブルシェンシャフト運動をカールスバート決議で抑えるなど、自由主義やナショナリズムを抑圧することで平和と安定を求めた。1821年にオーストリア宰相に就き、翌1822年には、皇帝フランツ1世を介してザーロモン・ロートシルトとその兄弟に男爵位が授与され、ロスチャイルド家は貴族となった。
だが前近代的な国際秩序は1820年代から揺らぎ、中南米やギリシアの独立も彼の望まぬ形で進んだ。1830年代に工業化が本格化すると、新興のブルジョワジーが自由主義的な改革を掲げ、各国で反体制運動が激しくなった。1848年2月のフランス二月革命が諸国民の春を呼び、オーストリアでも革命が勃発して、彼は宰相を辞任してロンドンに亡命した。1851年に帰国を許され、1859年6月11日にウィーンで没した。結婚は三度に及び、それぞれ子をもうけた。家庭では子煩悩で、常に子供たちの幸せに気を配る父であったという。芸術にも関心が深く、音楽ではハイドンやベートーヴェン、ロッシーニ、パガニーニ、リストら著名な作曲家たちを知っていたとされる。また、1871年に来日した元外交官ヒューブナー男爵は、彼の庶子とされる。回想録の邦訳も出ている。
同じ年に亡くなった人物
- オスカル1世 (スウェーデン王) (1859年没)
- ジェームズ・ウォード (画家) (1859年没)
- アレクシ・ド・トクヴィル (1859年没)
- ディーリア・ベーコン (1859年没)
- Dionysius Lardner (1859年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨーゼフ・フォン・フューリッヒ (1876年没)
- ヨーゼフ・ブロイアー (1925年没)
- ルートヴィヒ・アンツェングルーバー (1889年没)
- フリードリヒ・ヨハン・カール・ベッケ (1931年没)
- ヨーゼフ・マティアス・ハウアー (1959年没)