伝記
チャールズ・グッドイヤーは、1800年12月29日にコネチカット州ニューヘイブンで、農民アマサの6人兄弟の長男として生まれたアメリカの発明家で、ゴムの加硫法を発明した人物である。父は象牙のボタン作りに関心を持ち、水車を使える土地を求めて一家はノーガタックに移った。父は製粉業と農場を営み、少年チャールズは家業の手伝いに追われた。1816年、16歳で機械学を学ぶためフィラデルフィアに出て、21歳で実家に戻ると、父のボタン製造を手伝いながら、当時ほとんどが輸入品だった農器具の製造に取り組んだ。24歳のとき、生涯その発明を支え続けたクラリッサ・ビーチャーと結婚した。その後フィラデルフィアで農具の鍛冶店を開き、信頼できる品として評判を得たが、30歳ごろ健康を損ない、事業も傾いて破産した。以後の十年は辛い時代で、借金のために何度も投獄された。
1831年ごろ、新素材のゴムに興味を持ち、関係する新聞記事を切り抜いて集めた。ニューヨークでロクスバリー・ラバー社のゴム製浮き輪を買って試し、チューブの不完全さにあきれて、自分で試作品を作って同社に持ち込んだ。当時のゴムは、冬は固まり、夏は溶けてべたつくという欠点があり、同社は製品の信頼性の不足から倒産寸前だった。彼は欠点を克服する決意を固め、債権者に訴えられて再三刑務所に入りながら実験を重ねた。ニューヘブンに小さな工房を建て、自宅を材料の粉砕や攪拌ができるよう改造し、妻や子の協力のもとで研究したが、出資者は失望して資金を引き上げた。ニューヨークでは薬剤師の友人の屋根裏で実験を続け、有毒ガスで窒息して危篤になったこともある。硝酸に浸したゴムの表面が粘りを失うことを見いだし、この酸による方法で作った製品により、ジャクソン大統領から励ましの手紙を受けた。スタテン島に工場を建てたものの、1837年の恐慌で再び破産し、すべてを失った。
ボストンで借金をして開発を再開し、酸による方法の特許を取って政府と郵袋150個の納入契約を結んだが、袋は溶けて変質し、返品が相次いだ。重要な発見は1839年の冬で、ゴムに硫黄を混ぜて加熱したところ、溶けずに革のように焼け焦げ、周囲に乾いた弾力のある褐色の物質が残った。硫黄がゴムに耐熱性を与えることを知った彼は、胃痛や痛風に悩まされ、足を引きずりながら適切な熱の加え方を探った。極貧の暮らしの中で、家財の多くを売り払い、皿がなくなるとゴムで皿を作るほどであった。ボストンでホテル代を払えず拘留され、戻ると息子の一人が亡くなっていて、借りた馬車で小さな棺を墓地まで運んだ。12人の子のうち6人が幼くして死んだ。
やがて華氏約270度の蒸気で4〜6時間圧力をかけると一定の結果が得られると分かり、義弟デ・フォレストの援助でスプリングフィールドに工場を作った。1844年6月15日に加硫ゴムの特許を取得したが、侵害が相次いで32件もの訴訟を戦い、1852年には国務長官ダニエル・ウェブスターが弁護を引き受けた。イギリスではトーマス・ハンコックが先に特許を出願し、のちに訴訟となった。1855年、ナポレオン3世からレジオンドヌール勲章を授けられた。1860年7月1日にニューヨークで没し、故郷ニューヘブンに葬られた。20万ドルの借金が残ったが、家族は特許収入で安定した暮らしを送った。
同じ年に亡くなった人物
- Casimiro de Abreu (1860年没)
- ヨハン・ルズヴィ・ヘイベア (1860年没)
- セルゲイ・トルベツコイ (1860年没)
- Evariste Regis Huc (1860年没)
- ミロシュ・オブレノヴィッチ1世 (1860年没)
同じ地域に関係する人物
- エドゥアルド・ブロッホ (1945年没)
- カルメン・ヘレラ (2022年没)
- ナサニエル・ロード・ブリトン (1934年没)
- モンティ・ウーリー (1963年没)
- ウィリアム・メリット・チェイス (1916年没)