HISTORICAL PERSON · 1860年没

アルトゥル・ショーペンハウアー

ドイツの哲学者。裕福な商人の家に生まれ、1819年に主著『意志と表象としての世界』を発表した。

生涯
1860年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ヘッセン州 / フランクフルト・アム・マイン)
出生地
ポーランド共和国(グダニスク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ヘッセン州)

伝記

アルトゥール・ショーペンハウアーは、1788年に富裕な商人ハインリヒと、名門トロジーネル家出身のヨハンナの長男としてダンツィヒに生まれたドイツの哲学者である。1793年にダンツィヒがプロイセンに併合されると、一家はハンブルクへ移った。9歳のときにはフランス語の習得のためルアーヴルの貿易商の家に2年間預けられ、同年のアンティームと親交を結んだ。ハンブルクに戻ってからは商人を育てる私塾に通ったが、ギムナジウムへの進学を望んだ彼は父に反対された。後に商人になるという約束のもとで、15歳から16歳にかけてヨーロッパ各地を周遊し、旅日記には社会の底辺の悲惨に衝撃を受ける姿が記されている。

1805年に商会に入ったが、4月に父が不慮の死を遂げ、翌年には家業の商会も解散した。商業教育と精神的な仕事への渇望との板挟みに苦しんだ末、ワイマールに移っていた母から学問の道を進むよう励まされ、1807年にギムナジウムに入った。1809年にゲッティンゲン大学の医学部に入学し、ゴットリープ・シュルツェのもとで哲学を学んで、翌年には哲学部へ移った。シュルツェからはカントとプラトンを会得するよう忠告された。1811年にはベルリン大学へ移り、フィヒテのもとで本格的に哲学を研究したが、のちにフィヒテやシュライアマハーへの尊敬は軽蔑と否定に変わったという。

1813年に博士論文『根拠の原理の四つの根について』を完成させ、イエナ大学から学位を得た。母のサロンで出会ったゲーテはその才能を高く評価し、色彩の研究を依頼した。1814年に母と完全に仲たがいしてドレスデンに移り、東洋学者マイヤーを通じて古代インド哲学を知った。色彩論『視覚と色彩について』を完成してゲーテに送り、1818年に主著『意志と表象としての世界』を書き上げた。刊行は1819年だが、商業的には不成功に終わった。1820年にベルリン大学の講師となったが、そこでも理解されず、講義の時間をあえてヘーゲルの主講義に合わせたため、聴講者は集まらず失望した。

1823年にはミュンヘンで約1年病気に苦しみ、右耳が聞こえなくなったという。1831年にコレラの流行を避けてベルリンを離れ、1833年にフランクフルト・アム・マインに定住して隠遁生活に入った。書店への照会では著書の需要がまったくなく在庫の大部分が反故になったと知らされたが、『自然における意志について』を刊行し、ノルウェー王立学士院の懸賞論文『意志の自由について』は1839年に入賞した。道徳の基礎を論じた論文はデンマークの学士院で受賞資格なしとされたが、両論文は『倫理学の二つの根本問題』にまとめられた。1844年には主著の第2版と続編が出たが、原稿料は支払われなかった。

1849年には妹アデーレが亡くなった。6年がかりの『余録と補遺』は完成し、ベルリンの書店から全2巻で、やはり原稿料なしで刊行された。1853年、イギリスの雑誌でジョン・オクセンフォードが彼を論じたことで、初めて外国人の注目を集めた。ワーグナーは『ニーベルングの指輪』に献辞を添えて送り、彼はワーグナーに音楽家より詩人の才能があると語った。同じ1854年には、のちに最初の伝記作家かつ遺言執行人となる法学博士グヴィナーと親しく交際するようになった。1860年9月21日に没した。

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