HISTORICAL PERSON · 1860年没

ボーヤイ・ヤーノシュ

ハンガリー領トランシルヴァニア出身の数学者。平行線公準を研究して非ユークリッド幾何学の可能性を開き、双曲幾何学を提唱した。ロバチェフスキーと並ぶ提唱者だが、生前はほとんど評価されなかった。

生涯
1860年没
死亡地
ルーマニア(ムレシュ県 / トゥルグ・ムレシュ)
出生地
ルーマニア(クルジュ=ナポカ)
出典
世界地図
ルーマニア(ムレシュ県)

伝記

ボーヤイ・ヤーノシュは、1802年12月15日に、当時ハンガリー王国領だったトランシルヴァニアのコロジュヴァール(現在のルーマニア領クルージュ=ナポカ)で生まれたハンガリー人の数学者である。父は数学者で詩人のボーヤイ・ファルカシュ、母はベンケー・ジュジャンナであった。幼いころから数学に異常な才能を示し、13歳のころには微積分などを身につけ、ファルカシュの代わりに講義を行って好評を博したという。父は息子を数学者に育てようとしたが、暮らし向きが楽ではなく学費を工面しきれなかったため、ヤーノシュはウィーンの工兵学校に進んだ。在学は1818年から1822年か1823年にかけてとされ、卒業後はハンガリー陸軍の職業軍人となった。剣とヴァイオリンの腕前はハンガリー軍随一という評判をとり、ドイツ語、ラテン語、フランス語、イタリア語、ルーマニア語など複数の言語を話す語学の才にも恵まれていた。

軍務のかたわらで数学の研究も続け、ユークリッドの平行線公準に取り組んだ。父ファルカシュは、ドイツの偉大な数学者ガウスの同窓生で友人でもあり、自身も平行線公準を研究していたが、自信作をガウスに見せて誤りを指摘されて以来、この問題から遠ざかっていた。そのため、息子の研究を知ると、1820年に手紙で「平行線の問題に取り組んではならない。私はこの道を行き着く先まで知っている。この底なしの夜は、私の人生から光と喜びをすべて消し去った」と訴え、やめさせようとした。しかしヤーノシュはひるまず、公準が幾何学の他の公理から独立であり、その否定の上に矛盾のない別の幾何学が築けるという結論に至った。1823年には父に「無から奇妙な新しい宇宙を創り出した」と書き送っている。

1826年ごろには、現在双曲幾何学と呼ばれる非ユークリッド幾何学を不十分ながら建設した。それまで否定的だった父も息子を評価するようになり、すぐに発表するよう促した。論文は父の著書の付録として、1832年に発表された。ファルカシュがその抜き刷りをガウスに送ると、ガウスは友人の息子を「第一級の天才」と讃えたとされる。一方でファルカシュへの返事には、論文の内容は自分が20年以上前から考えていたことと一致しており、誉めれば自分を誉めることになる、と書いた。ヤーノシュは落胆し、ガウスが自分の成果を盗んだのではないかとさえ疑った。さらに、ロシアのロバチェフスキーが同様の研究を先に発表していたことを知ると、衝撃を受けたという。ヤーノシュの論文は記号や論述が独特で読みにくく、ロバチェフスキーの論文は完成度が高かったと伝えられ、彼は一時、その存在を疑うほどであった。しかし論文の真価に気づくと、この方面の研究自体をやめてしまった。

1833年、学問にも人生にも絶望して軍を退役し、祖母が遺した屋敷で隠遁生活に入った。1849年に結婚したが、1852年に離婚している。数学と一般認識論の研究は細々と続け、複素数を実数の順序対として厳密に幾何学的に捉える考えも残した。しかし、付録の24ページを除いては、生涯、論文を公表しなかった。1860年1月27日、肺炎のため57歳でトランシルヴァニアのトゥルグ・ムレシュで死去し、2万ページを超える数学の手稿が残された。生前には業績がほとんど評価されなかったが、非ユークリッド幾何学の研究が進むにつれて再評価され、双曲幾何学は「ボーヤイ・ロバチェフスキー幾何学」とも呼ばれるようになった。

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