伝記
マーティン・ヴァン・ビューレンは、1782年12月5日にニューヨーク州オールバニの南、キンダーフックの村で、5人兄弟の3番目として生まれたアメリカ合衆国の政治家である。第10代国務長官、第8代副大統領、第8代大統領を務め、故郷にちなむ「オールド・キンダーフック」の愛称で呼ばれた。その手腕と狡猾さから、友人には「小さな魔術師」、敵には「ずる賢いキツネ」と呼ばれた。独立宣言の署名後に生まれた最初の大統領であり、非アングロ・サクソン系で初の大統領、第一言語が英語でなくオランダ語だった唯一の大統領でもある。民主党の最初の主宰者とも評される。
祖先は1631年にオランダから移住した。父エイブラハムは農夫で評判の居酒屋の主人であり、6人の奴隷を所有し、独立戦争を支持して、のちジェファソニアン・リパブリカン党に入った。ヴァン・ビューレンは村の粗末な学校で基礎を学び、キンダーフック・アカデミーとワシントン・セミナリーでラテン語を学んだ。作文と話法に優れ、14歳までに基礎教育を終えると、1796年に地元の著名な連邦党員の判事フランシス・シルベスターの事務所で法律の修業を始めた。ここで6年を過ごし、最後の1年はニューヨークのウィリアム・ピーター・ヴァン・ネスの事務所で学んで、1803年に法曹界に入り、25年にわたり弁護士を続けた。1807年2月21日には、幼なじみで遠縁のハンナ・ホーズと結婚した。夫妻は5人の息子と1人の娘をもうけたが、娘は死産で、四男ウィンフィールド・スコットは生後間もなく亡くなった。ハンナは12年の結婚生活ののち、結核で1819年2月5日に没し、ヴァン・ビューレンは再婚しなかった。大統領在任中のホワイトハウスは男所帯で荒れていたが、これを見かねた第4代大統領マディソンの妻ドリーが長男にアンジェリカ・シングルトンを紹介し、二人は1838年に結婚して、アンジェリカがホワイトハウスの女主人役を務めた。
弁護士業で財をなして政界に入り、クリントン支持派と連合して1808年から1813年までコロンビア郡の代理人を務めた。1812年にニューヨーク州議員、1821年に同州選出の上院議員となり、1828年にはニューヨーク州知事に就いた。同年の大統領選挙でアンドリュー・ジャクソンを強力に支援し、その論功で国務長官に就任した。閣僚夫人をめぐる騒動では、自分とイートン陸軍長官がまず辞任し、他の全閣僚がそれに続くという案を示して事態の収拾に貢献し、これを評価したジャクソンの後継者に指名された。1832年に副大統領に指名され、ジャクソンの引退後は民主党の大統領候補となり、ホイッグ党が有力候補を乱立させたこともあって、選挙人170票を得て当選した。
1837年に就任した大統領としては、同年の恐慌をはじめ在任中の数回の恐慌に目立った成果を上げられなかった。アルーストック戦争とキャロライン事件を通じて、イギリスとその植民地カナダとの関係も緊張した。ジャクソン政権下の強制移住法に従い、チェロキー族がオクラホマへ追われる途上では、老人や子供を中心に多くの死者が出たとされる。1840年の選挙で再選を逃し、1844年の民主党大会では投票の多数を得ながら3分の2に届かず、ジェームズ・ポークが指名された。1848年には自由土地党などから出馬して3位に終わった。1862年7月24日、キンダーフックの自宅で、気管支喘息と心不全により死去した。
同じ年に亡くなった人物
- Francois Nicholas Madeleine Morlot (1862年没)
- レオポルト・クーペルヴィーザー (1862年没)
- Joseph Adhemar (1862年没)
- Pauline Jaricot (1862年没)
- Felix de Muelenaere (1862年没)
同じ地域に関係する人物
- John Mulcahy (1942年没)
- ベネット・サーフ (1971年没)
- ナポレオン・サロニー (1896年没)
- サラ・ポールフリー (1996年没)
- デイヴィッド・リースマン (2002年没)