伝記
ヨハン・ルートヴィヒ・ウーラントは、1787年4月26日にヴュルテンベルクのテュービンゲンで生まれたドイツの詩人、文献学者、法律家、政治家である。故郷のテュービンゲン大学で法学やギリシア古典、中世ドイツ文学を学び、とくに古いドイツとフランスの詩に関心を寄せた。1810年に法学の博士号を得ると、詩の研究を続けるため約8か月パリに滞在し、中世フランス文学を研究した。帰国後の1812年から1814年にかけては、ヴュルテンベルク王国の首都シュトゥットガルトで、法務大臣の官房に弁護士として勤めた。
詩人としては、1807年から1808年にかけて、ゼッケンドルフの『ムーゼンアルマナハ』にバラードや抒情詩を寄せて出発した。ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ゲーテ、シラーの影響が濃いとされ、在学中から詩作を始めていた。1812年から翌年には、ケルナーの『詩の年鑑』や『ドイツ詩人の森』にも詩を寄せている。1815年にそれまでの詩を一冊にまとめた『祖国の詩』は、ほとんど直後から広い読者を得て、版を重ねるたびに新しい詩が加えられた。作品は牧歌的で、故郷に根ざした素朴な抒情詩やリートが多くの作曲家に曲をつけられ、人々に愛された。バラードでは「盲目の王」や「楽人の呪い」が傑作として知られる。『シュヴァーベン公エルンスト』(1818年)と『バイエルン人ルートヴィヒ』(1819年)の2作の戯曲も残したが、詩にくらべれば重要ではないとされる。ロマン派の抒情詩人に数えられ、中世に最も強く想像力を刺激された点は同派と共通するが、その文体には精密さとしなやかさ、優雅さがあって他のロマン派と区別されるという。
学者としては、ゲルマン語・ロマンス語文献学の創始者の一人に数えられる。論文『古フランス叙事詩について』(1812年)、論考『射撃祭の歴史のために』(1828年)、1822年に刊行した『古ドイツの詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ』は名高い。中世ドイツの民謡や伝説、民間伝承の研究に没頭し、『北欧の資料によるトールの神話』(1836年)や『伝説研究』(1836年)のほか、民謡集『高地ドイツ語と低地ドイツ語の古い民謡』(1844年から45年)も編んだ。
政治では自由主義者として活動した。1815年にヴュルテンベルクに新憲法が与えられることになると、1806年に廃止された旧来の身分制議会の権利を擁護する側の代表的な論客となった。論争は1819年に国王ヴィルヘルム1世のもとでの妥協に終わり、新設された議会の議員に選ばれた。1829年にテュービンゲン大学の中世ドイツ文学の名誉教授となったが、政治的見解と相いれないとして1833年に辞した。1848年にはフランクフルト国民議会の議員となったが、自由主義的なドイツ統一の夢は結局潰えた。1862年11月13日、故郷のテュービンゲンで死去した。彼の詩「戦友ありき」は、第一次大戦中にドイツ人兵士の間で最も好まれて歌われ、さまざまな替え歌を生んだほか、軍の葬儀に欠かせない歌ともなった。詩はロングフェローによっても英訳され、1864年にはスキートが『歌とバラード』を刊行した。テキサス州オースティンの南の町にも、その名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- フランティシェク・シュクロウプ (1862年没)
- ロバート・ノックス (1862年没)
- マリー・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン (1862年没)
- Matthias Numsen Blytt (1862年没)
- Jose Santos Guardiola (1862年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・ゴットリープ・フリードリヒ・フォン・ボーネンベルガー (1831年没)
- アウグスト (プファルツ=ズルツバッハ公) (1632年没)
- アマーリエ・フォン・ナッサウ=ディーツ=オラーニエン (1777年没)
- ヘルマン・シュトルーベ (1920年没)
- ジョルジュ・J・F・ケーラー (1995年没)