伝記
ジョン・タイラーは、1790年3月29日にバージニア州チャールズシティ郡で生まれ、1862年1月18日に没したアメリカ合衆国の政治家である。第14代副大統領を経て第10代大統領を務め、大統領の死に際して副大統領から昇格した最初の大統領となった。父ジョン・タイラーはトーマス・ジェファーソンの友人で、1,000エーカー以上のタバコ畑と何十人もの奴隷を所有し、リッチモンドの巡回裁判所の判事を務めた州権支持者だった。母メアリー・アーミステッドは、タイラーが7歳のときに亡くなった。7人の兄弟姉妹とともに上流階級の教育を受けて育ち、合衆国憲法は厳密に解釈されるべきだとの信念を終生失わなかったという。幼いころは病弱でやせており、体の不調は生涯つきまとったという。のちに経済観を形づくった書物にはアダム・スミスの『国富論』があり、シェイクスピアの作品も愛読した。12歳でウィリアム・アンド・メアリー大学の予備門に入り、3年後に同大学へ進み、1807年に17歳で卒業した。
連邦下院議員を務めたのち、1825年から1827年にバージニア州知事として父の後を継いだ。1840年の大統領選挙では副大統領候補として当選したが、大統領ウィリアム・ハリソンが就任から約1か月で肺炎により死去したため、大統領職を継承した。この継承は公式には1967年発効の憲法修正第25条まで厳密には認められておらず、「偶然内閣」「継承内閣」と揶揄された。タイラーは元民主党員の南部州権論者で、独断専行して議会と対立し、1期4年のあいだに9回の拒否権を発動した。所属するホイッグ党の政策にも従わず、党首ヘンリー・クレイらと激しく対立して、就任から2か月ほどで党から除名され、「政党を持たざる男」として知られた。党の圧力で閣僚6名のうち5人が辞職している。就任後ただちに宣誓して大統領の全権を行使した先例は、のち憲法修正で明文化されるまで一世紀以上踏襲された。拒否権を議会に覆された最初の大統領でもある。
在任中には、ロードアイランド州で白人男子普通選挙を求める改革派が武装蜂起したが、1842年4月にタイラーが連邦軍の派兵を決めて鎮圧された。最も著名な功績とされるのは、任期末の1845年3月1日に承認したテキサス共和国の併合で、同年12月29日にテキサスは合衆国の一部となった。南部の強力な奴隷州の併合は、のちの南北戦争の遠因になったとされる。外交面では、英国とのウェブスター=アシュバートン条約や清との望厦条約を結んだ。
私生活では、1813年にレティティア・クリスチャンと結婚して8人の子をもうけたが、彼女は1842年に没した。1844年にジュリア・ガーディナーと再婚し、在職中に結婚した初めての大統領となった。子は7人が生まれ、歴代大統領で最も子が多かったが、常に金に困り、ハリソンの死を知ってワシントンへ急ぐ際にも借金をしたという。1861年2月には内戦回避の妥協を探る会議の議長を務めたが、のちバージニア州の即時脱退を促し、南部連邦の下院議員に選ばれたものの、就任前に気管支炎で死去した。最後の言葉は「私は死ぬ。たぶんそれが一番良いだろう」であったとされ、リッチモンドのハリウッド墓地に葬られた。
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