HISTORICAL PERSON · 1862年没

バハードゥル・シャー2世

ムガル帝国の第17代で最後の皇帝。インド大反乱で反乱軍に擁立されたが降伏し、1858年にビルマへ追放されて帝国は終焉した。

生涯
1862年没
死亡地
ミャンマー連邦共和国(ヤンゴン地方域 / ヤンゴン)
出生地
インド(デリー)
出典
世界地図
ミャンマー連邦共和国(ヤンゴン地方域)

伝記

バハードゥル・シャー2世は、1775年10月24日に生まれ、1862年11月7日に没した、北インドのムガル帝国第17代にして最後の皇帝である。在位は1837年から1858年。本名はミールザー・アブー・ザファルといい、皇帝アクバル2世と側室ラール・バーイーとのあいだに生まれた。当時のムガル帝国は衰退のなかにあり、あらゆる勢力が権威づけのために帝室を利用する状況で、1788年には祖父シャー・アーラム2世と父が盲目にされている。1803年の第二次マラーター戦争のなかでデリーはイギリスの保護下に入り、父の治世にイギリスは帝権を削り続け、皇帝の権威はデリー城の中でしか行使できなくなって、帝室は年金生活者のようになった。

帝室の内部にも争いがあった。アクバル2世の妃ムムターズ・マハルが自分の息子ミールザー・ジャハーンギール・バフトを皇太子に推し、父もこれを認めたため、庶子であった兄のアブー・ザファルは帝位継承者から外された。ところが1812年、ジャハーンギール・バフトが祭りの最中にイギリスの駐在官を銃で撃ったためデリーから追放され、アブー・ザファルが再び皇太子となった。ただし彼も皇太子時代に、イギリスとの意見の食い違いから問題を起こしていたようである。1837年9月28日にアクバル2世が崩御すると、62歳で即位してバハードゥル・シャーを称した。戴冠を執り行ったのがイギリスのインド総督代理だったことから、イギリス勢力の伸長がうかがえる。

治世の前半は比較的平穏で、父と同様に宮廷儀礼やデリーを練り歩く大行列を好み、凧揚げとウルドゥー詩に熱中した。自身も「ザファル」(勝利の意)を雅号とする詩人で、ガーリブ、ダーグ、ムーミン、ゾークらを宮廷詩人に雇った。とくに1847年以降に雇ったガーリブは傑出していたが、皇帝の詩の文体は簡単に真似できると見て、その詩をあまり評価していなかったといわれる。一方でイギリスは1845年から1849年のシク戦争でパンジャーブなどを併合し、インドの植民地化をほぼ完成させた。1854年には総督ダルハウジーが、皇帝の死後はその後継者を藩王として扱う計画を立てたが、本国政府の反対で挫折した。

1857年5月、東インド会社のインド人兵士(シパーヒー)がメーラトで蜂起してデリーに進軍し、デリー城に入ると、皇帝を反乱軍の最高指導者に擁立し、ムガル帝国の統治復活を宣言した。バハードゥル・シャーは反乱にあまり乗り気ではなかったが、身を委ねるほかなく、その夜に「ヒンドゥスターンの皇帝」としてイギリスへの宣戦布告の文書を発した。9月14日にイギリス軍がデリーに総攻撃をかけると、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協力維持に尽力したものの、やがて降伏を決意し、9月20日に一族とともに降伏した。報復の混乱のなかで皇帝の息子2人と孫1人がウィリアム・ホドソンに殺害された。1858年3月29日にイギリス国王への反逆罪で廃位され、5月に一族とともにビルマのラングーンへ追放された。同年11月1日にイギリスがインドの直接統治を宣言し、ムガル帝国は滅亡した。追放先で余生を過ごし、1862年11月7日に没した。流謫地へ送られる83歳の白髭の姿は白黒写真に残り、追放先で詠んだ詩には悲哀が漂う。イギリスの行政官トーマス・メトカーフは、その人物を穏やかで才能があるが虚弱で優柔不断と評している。

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