伝記
マアムーンは、アッバース朝の第7代カリフ(在位813年〜833年)である。本名はアブドゥッラーといい、786年9月14日に、第5代カリフのハールーン・アッラシードの長子として生まれた。母はイラン系の女奴隷マラーズィルで、誕生後まもなく没したため、ハールーンの正后ズバイダのもとで育てられた。若いころには、アラビア語、詩、音楽、法学などの教育を受け、知識への愛好によってアッバース家で最も教養あるカリフになったと評される。
長子でありながら、794年に後継者の第一位に指名されたのは、ズバイダの子である次男ムハンマド(のちのカリフ・アミーン)であった。ズバイダは第2代カリフ・マンスールの孫で、ムハンマドは両親ともアッバース家の血筋であったからである。アブドゥッラーが第二位の継承者となったのは799年のことである。802年、ハールーンはマッカ巡礼の際に、アミーンがバグダードでカリフを継ぎ、マアムーンがその次の後継者として、拡大されたホラーサーンを治める取り決めを公にした。ハールーンは二人に誓書を書かせ、アミーンには兄を次のカリフに指名すること、帝国の東半分を兄に任せることを、アブドゥッラーには弟への忠誠を誓わせたという。
809年にムハンマドがアミーンを名乗ってカリフに即位すると、アブドゥッラーは任地マルウを中心とするホラーサーンに引きこもった。間もなく811年、アミーンは誓いを破って息子ムーサーを後継者にしようとした。アブドゥッラーはこれに対抗してイマームを名乗り、アミーンの差し向けた討伐軍に対しては、イラン系の名将ターヒルを司令官に任じて応戦した。812年3月には正式にマアムーンを名乗った。アミーンはアラブ人を、マアムーンはイラン人を軍の主力とし、812年の夏にターヒルの軍はバグダードを包囲した。アミーンもよく防いだが、帝国の諸地方が次々にマアムーンになびき、813年9月に陥落して、アミーンは捕らえられ殺害された。
その後もマアムーンはマルウにとどまって事態を見守った。やがて彼は、反アッバース朝の動きをたびたび起こしてきたアリー家の人物、アリー・アッリダーを呼び寄せ、817年に自らの後継者に指名して、忠誠を誓わせた。さらにアッバース家の色である黒をアリー家の緑に改めたため、アッバース家の人々だけでなくイラクの住民も怒り、バグダードでは叔父の一人がカリフに推され、各地で反乱が起こった。818年の末に一行が西へ向かい、トゥース近郊に至ったところで、アリー・アッリダーは急死した。シーア派はこれをマアムーンによる毒殺とし、この地はシーア派の聖地マシュハドとなっている。マアムーンは彼を埋葬して進み、即位6年目にようやくバグダードに入った。その後もバーバクの乱など反乱が相次ぎ、彼はホラーサーン方面をターヒルに委ねた。これがターヒル朝の始まりである。晩年は東ローマ帝国との戦いに明け暮れた。
文化面では、詩を愛し、天文学、数学、医学、ギリシア哲学に通じ、特にユークリッドの幾何学に精通していたという。ギリシアの文献の収集とアラビア語への翻訳を奨励し、827年にはアルマゲストの翻訳と、シンジャール平原での子午線弧長の測量を命じた。830年頃にはバグダードに知恵の家を建て、フナイン・イブン・イスハークら優れた学者が集った。そこには天文台や図書館があり、経緯度の測定や天体の運行表の作成が行われた。エジプトではピラミッドに穴を開けさせ、内部を調べさせたともいう。833年、タルスス付近の宿営地で没した。
同じ年に亡くなった人物
- ガルシア・ガリンデス (833年)
- Enravota (833年)
- ハッジャージュ・ブン・ユースフ・ブン・マタル (833年)
同じ地域に関係する人物
- Ahmet Kirecci (1979年没)
- レオンティウス (僭称者) (488年没)
- ユーグ1世 (ヴェルマンドワ伯) (1101年没)
- マクシミヌス・ダイア (313年没)
- Athenodoros Cananites (紀元前100)