伝記
キュテラのピロクセノスは、紀元前435年または434年ごろから紀元前380年または379年ごろにかけて生きた古代ギリシアのディテュランボス詩人であり、「新音楽」を代表する一人である。古代ギリシア屈指のディテュランボス詩人とされる。
生涯の詳細は少ない。スーダ辞典によれば、エウリュティデスの子で、キュテラ島の出身である。島がアテナイ人に征服されたとき、奴隷としてアテナイへ連れて行かれ、ディテュランボス詩人メラニッピデスの所有となり、その手で教育を受けたという。のちにシケリアに移り、シュラクサイの僭主ディオニュシオスの宮廷詩人として過ごした。
この宮廷での出来事には二つの伝えがある。アテナイオスは、おそらく4世紀の哲学者エレソスのパイニアスの記述に基づいて、ピロクセノスが僭主の愛人ガラテイアを誘惑しようとして石切り場に投げ込まれたと伝える。一方、シケリアのディオドロスによれば、原因は僭主の下手な詩を褒めなかったことであった。ディオニュシオスは戦争から解放されて平和と余暇を得ると、詩作に熱心になり、評判の高い人々を招いて自作の添削役とし、戦の勝利よりも自作の詩を誇っていた。ある晩餐のあと、僭主の拙い作品が朗読され、ピロクセノスは感想を求められた。率直に答えると、僭主は嫉妬から悪口を言っているのだと責め、従者に命じて彼を石切り場へ引きずって行かせた。翌日、友人たちが赦免を願い出ると僭主は和解し、再び同じ顔ぶれを晩餐に招いた。酒が進むとまた自作を自慢し、自分では出来がよいと思う数行を朗読して「この詩をどう思うか」と尋ねた。ピロクセノスは一言も答えず、従者を呼んで、自分を石切り場へ連れ戻すよう命じたという。
シケリアを去ったのち、スーダ辞典によれば、イタリアのギリシア植民市タラス(現在のタラント)にしばらく住み、エペソスで死んだ。パロス島の年代記では、紀元前380年または379年に55歳で死んだとされる。生前の人気は高く、紀元前393年にはアテナイの評議会が彼をたたえる決議を出した。アンティパネスの喜劇では登場人物が彼を「人間の中の神」と呼び、アレクサンドロス大王はアジアにいる自分のもとへ彼の詩を取り寄せさせた。アレクサンドリアの文法学者たちは彼を正典に加え、ポリュビオスの時代に至るまで、アルカディアの若者たちが彼の作品を学び、毎年上演していたという。
彼は詩人兼音楽家であった。「新音楽」は前5世紀末から前4世紀の最初の数十年にかけて発達した様式で、メラニッピデスやティモテオスらとともに音楽に大きな変化をもたらした。キタラの弦の数を増やし、音数が多く音程の幅も広い複雑な旋律を用い、一つの作品の中で和声やリズムを何度も変えたのである。また、伝統的なディテュランボスは、アウロスの伴奏で歌う合唱歌だったが、彼の「キュクロプス」では、キタラの伴奏による独唱が行われた。この役には、革袋と薬草の小枝を含む衣装も用意されていたらしい。スーダ辞典によれば、ディテュランボスを24作と、アイアコスの子孫についての抒情詩を作った。最も重要な作品が「キュクロプス」で、キュクロプスのポリュペモスが海のニンフ、ガラテイアに寄せる恋を描く牧歌的な戯作であり、アリストファネスが『プルトス』でこれをパロディにした。彼は、キュクロプスに女性の恋人を与えた最初の詩人だったかもしれない。また『晩餐』は、豪華な宴会を語る詩で、シケリア宮廷の贅沢への風刺だったと思われ、その長い断片がアテナイオスによって保存されている。ただし、大食で悪名高いレウカスのピロクセノスの作とする説もある。