伝記
サミュエル・"サム"・ヒューストンは、1793年3月2日に生まれ、1863年7月26日に没した19世紀アメリカ合衆国の軍人、政治家である。テネシー州とテキサス州という二つの異なる州で知事を務めた、アメリカ史上唯一の人物とされる。テキサス共和国では初代と第3代の大統領を務め、テキサスが合衆国に加わってからは州選出の上院議員となり、最後にテキサス州知事を務めた。
バージニア州シェナンドー谷のティンバー・リッジで、アメリカ独立戦争で少佐に任命された父サミュエルと母エリザベス・パクストンの子として生まれた。9人の子の5番目で、5番目の息子であった。祖先はスコットランドにたどれ、アイルランドのアルスターを経て、1735年に北アメリカの植民地へ移住している。父は管理の才能に欠け、軍役のために借金を重ねた。負債を解消しようとテネシー州東部のメアリービルへの転居を決めたが、1807年に転居の完了前に死去し、母が5人の息子と3人の娘を連れて新居に移った。14歳のサムは辺境で基礎的な教育を受けただけで、1809年、16歳のとき兄の店での店員仕事に不満を持って家出した。
南西部へ向かって、ハイワシー川の島に住むチェロキー族に加わり、数年を過ごした。ジョン・ジョリーが養父となり、「渡りガラス」を意味するチェロキー名を与えた。ヒューストンは流暢なチェロキーの言葉を学んだ。1812年に19歳で家族のもとへ戻り、教室が一つの学校を設立したが、これはテネシーで初めて設立された小学校であった。同じ年に入営して米英戦争に従軍し、1814年3月のホースシュー・ベンドの戦いでは、クリーク族の矢で負傷しても傷に包帯を巻いてすぐ戦いに加わった。ジャクソンが攻撃の志願兵を募ったときに応じ、肩と腕に銃弾を受けた。ジャクソンの知遇を得て、1817年にチェロキー族に関する副代理人に指名されたが、陸軍長官カルフーンと意見が合わず、供給物の金額の問い合わせも受けて、1818年に辞職した。
法律を学んで司法試験に合格し、1818年後半にナッシュビル地区の検事総長と州市民軍の司令官に任命された。1822年に連邦下院議員に選出され、1823年から1827年まで務めた。民主党のジャクソンの忠実な支持者であった。1827年にテネシー州知事選で元知事を破って当選したが、最初の妻との離婚ののち、1829年に知事を辞職してアーカンソー準州に移った。その後テキサスに移り住んだ。1832年には連邦下院議員との口論と裁判で注目を集めている。
1835年からのテキサス独立戦争ではテキサス軍を率いてメキシコと戦い、1836年4月にはサンタ・アナ将軍を捕らえて独立を認めさせた。同年に成立したテキサス共和国の初代大統領に選ばれ、1838年にいったん落選したが、1841年に再び大統領となった。1845年のテキサス併合後は、上院議員を13年間つとめ、1859年にテキサス州知事となった。1861年、南北戦争の勃発に先立って、テキサス州の合衆国離脱と南部連合への加盟に反対し、知事の座を退いた。流血を避けるため、ユニオン軍による反乱鎮圧の申し出も拒み、ハンツビルに退き、1863年にそこで死去した。都市ヒューストンは彼の功績にちなんで命名され、記念博物館や大学などが作られた。
同じ年に亡くなった人物
- ルートヴィッヒ・グリム (1863年没)
- ミッシェル・ガリコイツ (1863年没)
- フレデリク7世 (デンマーク王) (1863年没)
- アルフレッド・モカン=タンドン (1863年没)
- ラダマ2世 (1863年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・リー・ルーカス (2001年没)
- シャーマン・ヘンズリー (2012年没)
- ライトニン・ホプキンス (1982年没)
- ブラインド・ウィリー・ジョンソン (1945年没)
- ポール・アレクサンダー (2024年没)