伝記
ジョン・ウィルクス・ブースは、1838年5月10日にメリーランド州ベル・エア近くの農場で生まれたアメリカの舞台俳優で、エイブラハム・リンカーンの暗殺者として知られる。演劇一家の出で、父ジュニアス・ブースと母メアリー・アン・ホームズはともにイギリス出身で、1821年にアメリカへ移住した。父は当時のアメリカ演劇界で名を知られたシェイクスピア役者で、1852年に亡くなったとき、詩人ホイットマンは「最も偉大で最も高貴なローマ人は逝った」と綴った。ジョンは十人きょうだいの九番目で、兄エドウィンはシェイクスピア劇を脚本どおりに演じた役者として「演劇界の貴公子」と呼ばれ、姉エイジアもいた。エドウィンは暗殺の前にリンカーンの息子ロバートを汽車の事故から救ったことがあり、弟の事件後は一度引退したが、のちに舞台へ復帰した。名のウィルクスは、18世紀イギリスの急進的な政治家ジョン・ウィルクスにちなみ、一族は彼の遠縁にあたるともいう。
少年のころのブースは運動が得意で人気があり、乗馬と剣術に長けた。ベル・エア・アカデミーやクエーカー教徒の寄宿学校、聖公会系の陸軍式の学校に通ったが、成績は振るわず、校長は聡明さに欠けないが学ぶ機会を生かす気がないと評した。父の死を受けて14歳で学校を去った。16歳のころには劇場と政治に関心を抱き、1854年の選挙では排外主義政党の集会にベル・エアの代議員として出ている。父や兄たちの跡を継ごうと、屋敷の周りの森で毎日発声の練習をし、シェイクスピアを学んだ。1855年8月14日、17歳でボルティモアの劇場で『リチャード3世』のリッチモンド伯役を演じて初舞台を踏んだが、せりふを間違えて客席から野次を浴びた。1857年にはフィラデルフィアの劇団に入り、有名な一族との比較を避けるため、「J・B・ウィルクス」という名で出演を求めたという。
南北戦争の中で、彼は南部連合の支持者となった。リンカーンが共和制を廃止して絶対君主制をもたらすのではないかと姉エイジアに危惧を語り、自らを「ブルータス」になぞらえていた。当初は共犯者らとともにリンカーンを誘拐する計画を立てたが、のちに大統領や副大統領、国務長官らの同時殺害へと変えた。1865年4月14日、ワシントンのフォード劇場で喜劇『われらのアメリカのいとこ』を観ていたリンカーンの後頭部を、至近距離からデリンジャー型の拳銃で撃った。「専制者は常にかくのごとし」と叫び、飛びかかった少佐をナイフで切って振り払い、舞台に飛び降りて、劇場の裏手に用意した馬で逃げた。夜9時以降は通行禁止の橋では、守衛の軍曹をいいくるめて渡ったという。リンカーンは翌朝に死去した。
ブースは南軍の協力者の家を渡り歩き、ポトマック川を渡って逃げたが、南部奥地へ入る計画は果たせなかった。12日間の逃走の末、バージニア州の農場のタバコ小屋に潜んでいるところを騎兵隊に包囲され、同行したデイヴィッド・ヘロルドは投降したが、ブースは拒んだ。小屋に火が放たれ、軍曹が首を撃った傷が致命傷になり、4月26日朝に没した。遺体は4月27日の夜、陸軍長官の命令で秘密裏に埋葬され、自分こそブースだと名乗る者が多く現れたという。彼の日記は24ページが破り取られていた。
同じ年に亡くなった人物
- ウジェーヌ・ドゥヴェリア (1865年没)
- アンドレイ・シュタケンシュナイダー (1865年没)
- クリスチャン・トムセン (1865年没)
- アンドニオス・クリエジス (1865年没)
- ヘンリー・ウィーズ (1865年没)
同じ地域に関係する人物
- チャールズ・リー (司法長官) (1815年没)
- シェリー・マン (2005年没)
- ジェレミア・デントン (2014年没)
- クロード・スワンソン (1939年没)
- アーチー・ハーン (1955年没)