伝記
モイミール1世は、記録に残る最初のモラヴィアのスラヴ人の支配者である。820年代か830年代から846年まで在位し、モイミール家の名祖とされる。生年は分かっていない。名はラテン語ではモイマルスなどと記され、チェコ語やスロヴァキア語ではモイミール1世と呼ばれる。のちの大モラヴィアと呼ばれる国家の形成は、彼自身の、あるいは後継者たちの拡張政策によるものと、現代の研究では考えられている。
モイミールが登場する背景には、中央ヨーロッパの長い歴史がある。570年代からアヴァール人がカルパティア山脈東部からアルプス東部に至る広い地域を支配し、土地のスラヴ系の部族は貢納を課されていたが、7世紀の初めには抵抗が始まった。623年から624年には、今のウィーン一帯の住民がフランク人商人サモに率いられてアヴァールの支配を脱した。しかしサモが658年から669年のあいだに没すると、その公国は跡形もなく崩れた。それから1世紀半ののち、792年から796年にかけてフランク王国のカール大帝がアヴァール人を最終的に破ると、中部ドナウ流域には短い間にスラヴ人の公国が相次いで生まれた。モラヴィアの公国は、822年にモラヴィア人が皇帝ルートヴィヒ敬虔王に貢物を携えて現れたときに、初めて史料に姿を見せる。
モイミールがモラヴィアで頭角を現したのは820年代である。土地のスラヴ系諸部族を初めてまとまった政治的単位に統合した人物なのか、急速に変わる情勢のなかで有力になっただけなのかは分からない。それでも、900年ごろにバイエルンの司教たちが教皇に宛てた書簡によれば、モイミールには「前任者」がいたという。洗礼を受けた時期については、ミクルチツェ(現チェコ)のキリスト教の教会が9世紀の最初の四半世紀に建てられたとする年代判断をもとに、818年から824年のあいだとする説があるが、なお学界で議論が続いている。また、パッサウ司教の事績を記した歴史書は、831年にパッサウ司教レギンハルがモラヴィア人に集団洗礼を授けたと記録している。それでも、ミクルチツェの異教の聖所は9世紀半ばまで途切れずに使われ続けた。
モイミール治下の国境ははっきりしないが、830年代にモラヴィア人が勢力を広げていたことは確かである。844年から862年のあいだに作られた『ドナウ北方の城塞と地域の目録』の時点で、モラヴィア人はこの地域に11の城塞を持っていた。870年に書かれた『バイエルン人とカランタニア人の改宗』は、833年ごろ、土地のスラヴ人の支配者プリビナが「モラヴィア人の公モイミールによってドナウの向こうへ追われた」と述べる。プリビナは別のスラヴ人公国の首長か、モイミールに背いた配下のひとりだったとされる。現代の歴史家の多くは、プリビナの領地「ドナウの向こうのニトラ」を、今のスロヴァキアのニトラにあたると見ている。
840年代、モイミールはカロリング帝国内の内戦を好機として反乱をたくらみ、フランクの支配を振り払おうとした。強まる勢力は東フランク王ルートヴィヒ2世にとって深刻な脅威となった。フランク軍は846年8月半ばにモラヴィアへ侵攻し、ほとんど抵抗を受けないままモイミールを廃位した。モイミールは逃げたか、侵攻のなかで殺されたらしいが、廃位後の運命は不明のままである。新たな従属的な支配者には、親族のラスティスラフが立てられた。
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