HISTORICAL PERSON · 1866年没

ジョージ・エベレスト

インド南端からネパールに及ぶ子午線弧の測量事業を完成させ、インド測量局長官を務めた。エベレスト山の名の由来として知られる。

生涯
1866年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ウェストミンスター)
出生地
イギリス連邦(グリニッジ)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

サー・ジョージ・エベレストは、1790年7月4日に生まれたイギリスの測量技師・地理学者で、インド大三角測量事業の完成に大きく貢献した人物である。生まれた場所ははっきりせず、ウェールズの一族の屋敷で生まれたとも、ロンドンのグリニッジで生まれたとも伝えられ、洗礼は1791年1月27日にグリニッジの教会で受けた。父ウィリアム・トリストラム・エヴェレストは弁護士で治安判事を務め、南ウェールズに広大な地所を買えるほど成功した人物で、ジョージは六人の子の三番目で長男にあたる。曽祖父は肉屋で、祖父ジョンの代に法律家の家系となった。

マーロウの王立士官学校で学んだのち、ウーリッジの王立陸軍士官学校で1年を過ごし、数学の才能を示した。1806年、規定の16歳に達する前に東インド会社の士官候補生となり、ベンガル砲兵隊の少尉として同年インドへ向かった。初期のインドでの歩みはよく分かっていないが、数学と天文学の才能を見せたという。1814年から1816年にかけては、ジャワ島の測量にスタンフォード・ラッフルズによって選ばれ、ベンガルへ戻ってからはガンジス川やフーグリー川の知識を深め、カルカッタからベナレスへ至る信号線の測量も行った。その仕事が大三角測量事業の指導者ウィリアム・ラムトン大佐の目にとまり、1818年にその主任助手となった。ラムトンは、インド南端のコモリン岬から北へ子午線弧を測っていた。エベレストは現地作業の多くを担ったが、1820年にマラリアにかかり、南アフリカの喜望峰で療養した。

1821年にインドへ戻り、1823年にラムトンが没すると事業の監督者の地位を継いだ。しかし熱病とリューマチで半身が不自由になって1825年に帰国し、以後の5年間をイギリスで療養に充てた。この間の1827年に王立協会フェローに選ばれ、東インド会社に対してよりよい機器を求める働きかけや、陸地測量部の方法の研究に時間を費やした。1830年にインドへ戻り、測量長官に就いて1843年まで務めた。インド南端からネパールに至る約2,400キロの子午線弧を測るこの事業は、1806年に始まり、1841年にようやく完成した。合理的で天才気質だが、吝嗇で短気なとっつきにくい人物であったともいわれ、管理上の仕事や、イギリスからの批判への対応に多くの時間を割かれたことを嘆いたという。

1843年に引退して帰国し、1861年にバス勲章コンパニオンを受けてナイトに叙され、1862年には王立地質学会の副会長を務めた。エベレストはフリーメイソンの会員でもあり、1829年にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・ロッジに加わっている。1866年12月1日、グリニッジで没した。1852年、インド測量局がヒマラヤの「第15峰」と仮称された山が世界最高峰であることを見いだした。後継者の測量長官アンドリュー・スコット・ウォーは、現地名が見つからなかったとして、彼に敬意を表して同山を「エベレスト山」と名づけると発表した。しかし本人は、現地名を尊重する方針から、この命名を快く思っていなかったといわれ、自分の名がヒンディー語で書きにくく発音しにくいと考えていたとも伝えられる。

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