伝記
フランツ・ボップは、1791年9月14日にマインツで生まれたドイツの言語学者で、インド・ヨーロッパ語族の比較研究で知られる。一家はマインツ共和国の政治的混乱のため、アシャッフェンブルクへ移った。彼はそこのリセで自由な教育を受け、カール・ヴィンデッシュマンから東洋の言語と文学に目を開かされた。ヴィンデッシュマンはクロイツァー、ゲレス、シュレーゲル兄弟らとともに、インドの知恵と哲学に強い熱意を示していた人物である。フリードリヒ・シュレーゲルの著書『インド人の言語と叡智について』(1808年)も、聖なる言語であるサンスクリットへのボップの関心を刺激した。
1812年、バイエルン政府の費用でパリに赴き、サンスクリットの研究に専念した。ここでアントワーヌ・レオナール・ド・シェジー、シルヴェストル・ド・サシらの知遇を得た。とりわけ、インドでサンスクリットに親しんだアレクサンダー・ハミルトンから大きな影響を受けたという。図書館では、ジャン・フランソワ・ポンスがインドから持ち帰った多くの写本や、カルカッタとセランポールで印刷された書物に触れた。ナポレオンの逃亡やワーテルローの戦い、王政復古といった周囲の動乱にも動じず、パリの図書館にこもって5年間、熱心に研究を続けた。この時期に、ヨーロッパ各地の知識人と交わる機会を得た。
パリでの研究の最初の成果が、1816年にフランクフルトで刊行された『ギリシャ・ラテン・ペルシャ・ゲルマン語動詞変化との比較におけるサンスクリットの動詞変化組織について』である。この本には、ヴィンデッシュマンが序文を寄せた。サンスクリットがペルシア語、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語と同系であることは、すでに先行する学者たちによって知られていた。ボップが目指したのは、これらの言語の文法形式の共通の起源を、屈折から複合に至るまでたどることであり、それは先行者の誰も試みなかった仕事であった。動詞の歴史的な分析を通じて、比較言語学の最初の信頼できる材料をつくり出した。1816年のこの刊行は、比較言語学の出発点とされている。
その後ドイツにしばらく滞在してからロンドンに渡り、東洋学者チャールズ・ウィルキンズや言語学者コールブルックと出会った。当時プロイセン大使だったヴィルヘルム・フォン・フンボルトとも親交を結び、サンスクリットを教えた。1819年にはロンドンで、『マハーバーラタ』の挿話であるナラとダマヤンティの物語を、ラテン語訳と注を付けて校訂出版している。のちにゲッティンゲンに短く滞在し、フンボルトの推薦でベルリン大学のサンスクリット語・比較文法の講座に就任した。就任の年は1821年とも1825年ともいわれ、以後この職を生涯にわたって務めた。1822年にはプロイセン科学アカデミーの会員にもなったとされる。1827年には『サンスクリット語詳解教程』を刊行し、1830年にはサンスクリット語とラテン語の用語集をまとめた。1833年から1852年にかけて、大著『インド・ヨーロッパ語比較文法』を刊行した。この著作はミシェル・ブレアルによってフランス語に翻訳され、深い影響を与えた。1867年10月23日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- Lodovico Altieri (1867年没)
- 高杉晋作 (1867年没)
- フリードリープ・フェルディナント・ルンゲ (1867年没)
- ジョン・ロッテスリー (第2代ロッテスリー男爵) (1867年没)
- ジーモン・ゼヒター (1867年没)
同じ地域に関係する人物
- マルガレーテ・フォン・テューリンゲン (1501年没)
- カルル・フリードリッヒ・シンケル (1841年没)
- ルートヴィヒ・フォン・プロイセン (1796年没)
- フェリックス・フォン・ルシャン (1924年没)
- ヨシアス・フォン・ヘーリンゲン (1926年没)