伝記
ロタール1世は、795年にカール大帝の子ルートヴィヒ(のちのルートヴィヒ1世)と最初の妻エルマンガルドの長男として生まれた。カール大帝の孫にあたる。祖父は800年にローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を授かっており、ロタールはその帝国を継ぐ世代の長子として育った。カール大帝が814年に没すると父が単独で帝国を相続し、ロタールは父からバイエルンの統治を任されたとされる。
父のルートヴィヒ1世は敬虔王の異名を持つ人物で、817年に帝国継承令を発布して三人の息子への分割を定めた。これによりロタールはアーヘンで共同皇帝として戴冠され、次男ピピンはアキタニア王、三男ルートヴィヒはバイエルンを任された。翌818年にはイタリアを支配していたベルンハルトが継承令への不満から反乱を起こして刑死し、ロタールはイタリア王の地位も手にした。824年には教皇と皇帝の関係を定めた「ローマ憲章」を出したと資料にあり、イタリアの統治にも力を入れたことがうかがえる。822年にイタリアの統治を担い、復活祭にはローマで教皇パスカリス1世から改めて皇帝として戴冠されたとされる。825年にはイタリア王国の学校を国の権威のもとで組織し直す勅令も出したという。821年にはトゥール伯ユーグの娘エルマンガルドと結婚し、のちに皇帝位を継ぐ長男ルートヴィヒ2世、ロタリンギア王となる次男ロタール2世、プロヴァンス王となる三男シャルルなど、多くの子に恵まれた。
ところが父が後妻の子シャルル(のちの西フランク王シャルル2世)にも領土を与えようとしたことで、事態は大きく揺らぐ。ロタールは単独の帝位を狙って幾度か父に反乱を起こし、宮廷から遠ざけられてイタリアへ送られたり、弟たちと手を組んだり敵対したりする時期が十年ほど続いた。838年に次弟ピピンが没すると、翌839年にヴォルムスで帝国をロタールとシャルルの間で分けることが決められ、840年に父が世を去ると、ロタールが単独の皇帝となった。
しかしロタールがローマとアーヘンを結ぶライン川やモーゼル川の流域の支配を固めようとすると、シャルルと三弟ルートヴィヒが兄の権力強化を警戒して立ち上がった。ロタール側には亡き次弟の子ピピン2世がついた。841年6月、オセール近郊のフォントノワで兄弟同士の激戦が行われ、勝ったのはシャルルとルートヴィヒであった。この戦いの犠牲の大きさが、ノルマン人に対する西欧の抵抗力を弱めたと指摘されることもある。842年にシャルルとルートヴィヒはストラスブールで互いに協力を誓い合い、ロタールは妥協を余儀なくされて、同年6月にマコンで和平が成立した。数度の協議を経て、843年のヴェルダン条約で最終的な承認がなされ、フランク王国は西・東・中の三つに分かれた。
855年、ロタールは自らの死が近いことを悟り、長男ルートヴィヒ2世に皇帝の称号とイタリアを、次男ロタール2世にロタリンギア(ロレーヌ)などを、三男シャルルにプロヴァンスなどを分け与えた。こうして中フランク王国は三分され、フランク王国は五つにまで分裂した。数日後の9月29日、プリュム修道院で世を去った。跡を継いだルートヴィヒ2世は、皇帝としての実権を持てなかったという。父の代から続いた兄弟間の争いは、ドイツとフランスの原型となる分立の道を開いたことになる。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・ハンバル (855年没)
- Boso the Elder (855年)
- レオ4世 (ローマ教皇) (855年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲルハルト・ミッター (1969年没)
- フィリップ・ファイト (1877年没)
- クリスティアン3世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1735年没)
- クリスティアン4世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1775年没)
- ヴェルナー・リーブリッヒ (1995年没)