HISTORICAL PERSON · 紀元前360年代没

ネクタネボ1世

エジプト第30王朝を創始したファラオ。ペルシア・ギリシア連合軍の侵攻をナイルの氾濫を利用して退け、18年の治世で数多くの神殿修復を行った。

生涯
紀元前360年代没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ネクタネボ1世は、古代エジプト最後の土着王朝である第30王朝を創始したファラオである。エジプト語の名はナクトネブエフで、「主の強き者」を意味するとされる。軍の将軍としてセベンニュトスの出身で、有力な軍人ジェドホルの子だった。母の名は一部しか記録に残っていない。

第29王朝の最後のファラオ、ネフェリテス2世を追放して王位に就いたとされ、ヘルモポリスで見つかった石碑は、彼がネフェリテス2世を倒し、おそらく殺害したことを示唆している。このとき、アテナイの将軍カブリアスが政変を助けたのではないかという説もある。紀元前380年ごろに即位し、サイスとメンフィスで戴冠式を行い、首都をメンデスからセベンニュトスへ移した。前王朝の王たちへの態度は一様でなく、ネフェリテス2世を無能と呼び、先王アコリスを簒奪者と呼んで軽んじる一方、ネフェリテス1世にはより高い敬意を示したようである。

治世の大きな課題は、エジプトを反乱した太守領とみなすペルシアの再征服を退けることだった。紀元前374年から前373年にかけて、アルタクセルクセス2世は6年の準備を重ね、アテナイにカブリアスの召還を迫ったうえで、アテナイの将軍イフィクラテスとペルシアのパルナバゾスに大軍を率いさせた。兵は20万を超え、船はおよそ500隻に及んだと記録される。ネクタネボは、ナイル川のペルシウム支流に防備を築いて敵の艦隊を守りの薄いメンデス支流へ向かわせた。やがてイフィクラテスとパルナバゾスの不信が深まり、敵はメンフィスに到達できなかった。そこへ毎年のナイルの増水が重なり、エジプト側は守り抜く決意もあって、敗色濃厚に見えた戦いを完全な勝利に変えた。アテナイとスパルタから援軍を受けたともされ、ナイル川の西から攻め込まれて一度敗れたが、連合軍が仲違いして引き返したともいう。紀元前368年から西方の太守領がアルタクセルクセス2世に反旗を翻すと、反乱した太守たちに資金を援助し、スパルタやアテナイとの関係も結び直した。

内政では、数世紀来なかったほどの偉大な建築者・修復者として知られる。各地の神殿の工事を命じ、アスワン近くの聖なる島フィラエでは、のちに古代エジプトで屈指の聖地となるイシス神殿の前室を建て始めた。カルナックのアメン・ラー神域の第一塔門にも着手し、最古とされる誕生殿はデンデラで彼が建てたものと考えられている。ヘルモポリスではラムセス2世の塔門の前に優れた石柱を立てた。ほかにメンフィス、タニス、エルカブ、サフト・エル・ヘンネフなどの宗教建築にも工事の跡がある。聖なる動物の信仰も支援し、ヘルモポリスやメンデスなどで考古学的な証拠が見つかっている。神官団にも寛大で、即位1年目の勅令は、ナウクラティスでの輸入品と地元産品にかかる税の10パーセントをサイスのネイト神殿に充てるよう定めた。ヘルモポリスの石碑には、地元の神々への寄進が列挙されている。この気前のよさは神々への敬虔さを示すとともに、国内最大の富の保有者である神官団を財政面で支え、国の防衛費にも資するものだった。

治世16年にあたる紀元前364年から前363年ごろ、先代たちを悩ませた王位継承の問題を避けるためか、失われていた共同統治の慣行を復活させ、息子テオスを王位に加えた。もう一人の息子にジャハピムがいた。治世19年目に没し、墓も石棺もミイラも見つかっていない。没年は紀元前361年または前360年とも、前362年ともいわれる。後を継いだテオスの即位ののち、弟ジャハピムは兄に背き、自分の息子を王位に就けたとされる。

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