伝記
ジェームズ・ブキャナン・ジュニアは、1791年4月23日、ペンシルベニア州フランクリン郡ハリスバーグ近くのケーブ・ギャップにある丸太小屋で生まれた。裕福な商人ジェームズ・ブキャナン・シニアと妻エリザベス・シュペーアの子で、両親はスコットランド系アイルランド人の血を引き、父は1783年に北アイルランドから移住していた。11人兄弟の2番目で、うち3人は幼いうちに亡くなっている。1799年に一家はマーセスバーグへ移り、村の学校を経てカーライルのディッキンソン大学に進んだ。不品行な振る舞いで放校されそうになったが、改めて機会を請い、1809年9月に抜群の成績で卒業した。その後ランカスターで法律を学び、1812年に法曹界に入った。熱心な連邦党員だった彼は、米英戦争には当初反対していたが、イギリス軍がメリーランド州に侵入すると志願して竜騎兵部隊に加わり、ボルチモア防衛戦に参加した。
1814年から1815年にペンシルベニア州選出の下院議員を務め、1821年から1831年にも再び連邦下院議員となった。第21議会では司法委員会の議長を務めている。アンドリュー・ジャクソン政権下の1832年から1834年にはロシア担当大臣(駐ロシア大使)を務め、1834年12月に民主党の上院議員に選ばれた。再選を重ね、外交関係委員会の議長も務めたが、1845年3月にポーク内閣の国務長官に就くため辞職した。ピアース政権下の1853年から1856年には駐英国大使としてロンドンに滞在し、オステンド・マニフェストの作成を手助けした。大統領選では1844年、1848年、1852年と民主党の指名を逃したが、「オールド・バック」と呼ばれた彼は、1856年に候補に指名された。ピアース政権の大半を国外で過ごしていたため、国を二分した派閥政治の十字砲火に巻き込まれずに済んだことが有利に働いた。奴隷制の問題で両派の間を取り持つ態度を取ると見なされ、フレモント、フィルモアとの三つどもえの戦いを制して、1857年3月4日に第15代大統領に就任した。
彼は何よりもまず弁護士であり、「私は法以外の支配を全く承認しない」という決まり文句で知られた。また、生涯を通じて活発なフリーメイソンの会員でもあった。結婚しなかった唯一の大統領でもあり、これは若き日の婚約者アン・コールマンが1819年12月に23歳で急死したことに由来すると語られる。彼は彼女を失った悲しみから、生涯独身を貫いたと主張した。大統領官邸の雑事は姪のハリエット・レーンに任せ、これが大統領夫人の別名「ファーストレディ」の起源となった。
在任中の1857年9月には恐慌が起き、その後も経済は低迷した。1859年には江戸幕府の使節新見正興と謁見した。奴隷制をめぐる対立は深まり、彼は北部と南部の平和の維持に努めたものの、両陣営は離れ、南部諸州の脱退が続いて南北戦争へと突入した。脱退は不法だが、それを止めるための戦争もまた不法だと考えていたとされる。退任の頃には世論は批判的になり、民主党は分裂していた。引退後はランカスター近くの自宅ウィートランドで暮らし、1868年6月1日に亡くなった。歴史家による評価では、現在も最悪の大統領の一人に数えられることが多い。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・T・G・モートン (1868年没)
- August Blanche (1868年没)
- Carl Mayet (1868年没)
- モーリッツ・ハウプトマン (1868年没)
- Peter Julian Eymard (1868年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・バートラム (1823年没)
- ハリー・J・アンスリンガー (1975年没)
- ポール・アリジン (2006年没)
- ジム・ライトボディ (1953年没)
- Russell L. Ackoff (2009年没)