伝記
シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴは、1804年12月23日にブローニュ=シュル=メールで生まれ、1869年10月13日にパリで没した、十九世紀フランスの文芸評論家・小説家・詩人である。ロマン主義を代表する作家のひとりで、近代批評の父とも言われる。父は間接税の主任監督官で、ブローニュの市会議員も務めていたが、病のため、息子が生まれる少し前に亡くなった。サント=ブーヴは生まれたときから父を知らず、母と、同じく夫を亡くしていた父方の叔母に育てられた。1812年にブローニュの私塾に入って1818年まで学び、その後パリでの修学を許されて、シャルルマーニュ校やブルボン校に通った。ブルボン校では、後に恩師となるポール=フランソワ・デュボワに教わっている。1822年にはコンクール・ジェネラルのラテン語詩部門で一等賞を得た。
バカロレア取得後は医学部に入り、1826年には外来実習生としてサン=ルイ病院に配属されたが、1827年に医学の道を捨てて文学に専念した。恩師デュボワが創刊した自由主義の新聞『ル・グローブ』に匿名の記事を寄せ、続いて「ジョゼフ・ドロルム」の署名で寄稿した。ユゴーの『オードとバラード』に好意的な批評を書いたことから二人は親交を結び、シャルル・ノディエのセナークルの集まりにも一緒に出席した。サント=ブーヴは、ユゴーの妻アデールと関係を持ったことでも知られる。『ル・グローブ』の持ち主のひとりとなったデュボワとは決闘をしたことがあり、雨の中で四発を撃ち合って互いに当たらなかった。傘を手放さず、殺されてもいいが濡れたくはないと言ったと伝わる。
小説が不評だったあと、サント=ブーヴは文学研究に向かった。代表作『ポール=ロワイヤル史』は、ジャンセニスムの拠点であるポール=ロワイヤル・デ・シャン修道院の誕生から破壊までを描いたもので、ローザンヌのアカデミーで行った講義が元になっている。刊行は1837年あるいは1840年から1859年にわたり、宗教史の刷新に重要な役割を果たしたとされる。1844年にはカジミール・ドラヴィーニュの後任としてアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。1848年から翌年にはリエージュ大学で教え、シャトーブリアンとその文学グループについての講義は1860年に出版された。さらに毎週月曜日に新聞に連載した評論が、『月曜閑談』にまとめられた。
ユゴーとは違って、1852年に第二帝政に与し、コレージュ・ド・フランスのラテン詩講座に就いたが、就任講義は帝政への接近を非難する学生に妨害され、辞任を余儀なくされた。のちに高等師範学校の講師となり、1858年から1861年にフランス語・文学を教えた。自由帝政下では元老院議員に任じられ、没年までその職にあって、文学と思想の自由を擁護した。1869年にモンパルナス通りの自宅で亡くなった。医師の解剖では、前立腺の大きな膿瘍が死因と推定された。遺体はモンパルナス墓地の、母が眠る墓所に葬られた。
その批評は、従来の趣味や印象に基づく批評とは一線を画し、伝記や書簡などの資料を駆使して、作家の生い立ち、環境、思想が作品に現れるとする立場に立つ。ただしプルーストをはじめ、作家の生涯と作品を結びつける手法への批判も二十世紀以降は多い。
同じ年に亡くなった人物
- モハメド・アザム・ハーン (1869年没)
- Diomidis Kyriakos (1869年没)
- ガーリブ (1869年没)
- ジョン・カシン (1869年没)
- Narcisa de Jesus (1869年没)
同じ地域に関係する人物
- ウジェーヌ・ポティエ (1887年没)
- アントナン・アルトー (1948年没)
- ウージェーヌ・ギルヴィック (1997年没)
- ジャン・キュニョー (1933年没)
- ピエール・オーギュスト・コット (1883年没)