伝記
第14代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス=スタンリーは、1799年3月29日にランカシャーのダービー伯爵家の邸で生まれたイギリスの政治家である。父は後の第13代ダービー伯爵で、母は牧師の娘シャーロットだった。イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチに進み、学生時代から作詞に熱心で、これは生涯の趣味となった。在学中の1820年に庶民院議員に初当選した。家は代々ホイッグ党支持で、本人もそう称したが、独自の判断で行動し、イングランド国教会を守りたい思いからホイッグ党と相容れない面もあった。1824年にエマ・ブートル=ウィルブリアムと結婚し、後に第15代、第16代ダービー伯爵となる二人の息子と一女を得た。
1827年にはカニング内閣に参加し、1830年にグレイ伯爵のホイッグ党政権が成立すると入閣し、アイルランドの運動家オコンネルと庶民院で激しく争った。1833年に陸軍・植民地大臣に栄転し、植民地での奴隷貿易の廃止に尽力した。しかし1834年5月、アイルランド国教会の歳入を社会保障費に転換するグレイの政策に反対して辞職し、ホイッグ党から離れた。これに従う議員が約八十名おり、彼らはダービー派と呼ばれる独立会派を形成した。1834年10月に祖父が没して父が伯爵位を継ぐと、以後はスタンリー卿の儀礼称号を使った。1837年夏の総選挙で会派は六十議席に落ち込んだため、同年12月に保守党に入党した。
1841年のピール内閣に陸軍・植民地大臣として入閣し、阿片戦争の最終局面で清に南京条約を結ばせ、英領カナダとアメリカの緊張を和らげて戦争を回避したとされる。1844年10月、繰上勅書でビッカースタッフのスタンリー男爵として貴族院へ移った。1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉が起こり、ピールが穀物法の廃止を表明すると、保護貿易主義者のスタンリーは地主の多い党内の反対派とともに抵抗した。法は廃止されたが、ピールら自由貿易派百十二名が離党してピール派を結成し、1846年7月に彼が保守党の党首に定められた。1851年春に父が没し、五十二歳で伯爵位を継いだ。
ディズレーリを庶民院院内総務に据え、1852年2月に最初の組閣をした。経験のある閣僚がわずか三人の内閣だったが、少数与党のため、同年12月にディズレーリの予算案が否決されて総辞職した。以後五年の野党時代には、ピール派を呼び戻したいとの意図から徹底対決を避けた。アロー戦争では弱い中国のために戦争に反対したが、1857年の総選挙でパーマストンが大勝し、保守党は議席を減らして、意気消沈したという。1858年2月に二度目の組閣をし、息子のスタンリー卿を植民地大臣に任じて、インド大反乱後のインドの統治を東インド会社から女王の直接統治へ移した。1859年に議会で敗れて総辞職した。
1866年からの第三次内閣も少数与党だったが、ディズレーリの主導で第二次選挙法改正を達成し、貴族院での法案の通過にはとりわけ大きな貢献をした。三度首相を務めたが、いずれも短命な少数政権で、庶民院のディズレーリが政局を主導したため、影の薄い首相ともされる。1868年に病気のためディズレーリに首相職を譲って退任し、1869年10月23日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ピーター・マーク・ロジェ (1869年没)
- カール・レーヴェ (1869年没)
- イヴァン・ラジェチニコフ (1869年没)
- ヘンリー・ジャーヴィス・レイモンド (1869年没)
- Karl-August von Reisach (1869年没)