HISTORICAL PERSON · 1869年没

フランクリン・ピアース

第14代アメリカ大統領で、ニューハンプシャー州出身の唯一の大統領。米墨戦争に従軍した。カンザス・ネブラスカ法を支持して北部での人気を失い、1856年には党の指名を得られず、1869年に肝硬変で没した。

生涯
1869年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューハンプシャー州 / コンコード)
出生地
アメリカ合衆国(Hillsborough)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューハンプシャー州)

伝記

フランクリン・ピアースは、1804年11月23日にニューハンプシャー州ヒルズボロの丸太小屋で生まれ、1869年10月8日にコンコードで没したアメリカ合衆国の軍人・政治家である。第14代大統領で、19世紀に生まれた初の大統領であり、現在までニューハンプシャー州から選ばれた唯一の大統領でもある。父ベンジャミンは開拓地で農業を営み、独立戦争では州民兵の司令官を務め、のちに州知事を2度務めた。母はアンナ・ケンドリックで、ピアースは8人きょうだいの5番目だった。少年のころは勉強を好まなかったが、12歳でハンコックの学校に入ったとき、ホームシックで19キロを歩いて家に戻ったところ、父に途中まで送り返され、残りを嵐の中で歩かされた。後年この出来事を「人生の転機」と語ったとされる。その後フィリップス・エクセター校で大学への準備を進め、1820年にメイン州のボウディン大学に入った。作家のナサニエル・ホーソーンや詩人ロングフェローと親友になり、このため歴代大統領のなかで最も文学を愛好した人物とも評される。2年間は成績が最下位だったが猛勉強して1824年に卒業し、法律を学んで1827年に弁護士となった。

1829年から州議会議員を務め、1832年から議長となり、民主党の連邦下院議員を経て、1837年から1842年まで上院議員を務めた。上院議員を辞めたあとはコンコードで法律の仕事に戻り、ニューハンプシャー州の地方検事となったが、ポーク大統領が任命しようとした司法長官は断った。米墨戦争が始まると大佐として従軍し、准将に昇進した。1852年の民主党全国大会では49回目の投票でようやく大統領候補に指名され、副大統領候補のウィリアム・キングとともに、ホイッグ党のウィンフィールド・スコットらに選挙人票で212票差、一般投票で22万票差をつけて圧勝した。

しかし私生活には恵まれなかった。3人の子はいずれも早くに亡くなり、とくに就任2か月前には、列車の脱線事故で11歳の息子ベンジャミンを夫妻の目の前で失っている。妻のジェーンは大統領職への関心を持たず、ファースト・レディの役は大統領の叔母が代わって務めた。1853年から1857年の在任中、メキシコからの土地購入や、日本との条約の署名など外交上の成果もあったが、カンザス・ネブラスカ法を支持してミズーリ協定を撤廃し、西部への奴隷制拡大をめぐる議論を再燃させたため、北部での人気は急落した。外交官たちがオステンド宣言を出すと、信用はさらに傷ついた。1856年の大統領選では党に見捨てられ、ブキャナンが候補になった。

妻が1863年に没した後は、アルコールとの戦いに余生を費やしたとされる。南北戦争では南部連合への支持を表明し、ジェファーソン・デイヴィスとの私信が新聞に公表されて評判は一層落ちた。1869年に肝硬変で亡くなった。日本との関わりでは、1853年に漂流民の浜田彦蔵と会談しており、日本人が初めて会ったアメリカの大統領とされる。将軍徳川家定へ親書を送り、駐日領事ハリスが外交官として初めて将軍への謁見を許されて、これを呈した。大統領としての評価は低く、米国史上最悪の大統領の一人に数えられる。

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