伝記
ニコラウス1世は、858年4月24日から867年11月13日まで在位した第105代のローマ教皇である。生年は820年ごろとも800年ごろともされ、はっきりしない。ローマの名門に生まれ、父は行政官(デフェンソル)のテオドールと伝えられる。優れた教育を受け、敬虔さや慈悲深さ、有能さ、学識、雄弁で知られ、若くして教会に仕えた。教皇セルギウス2世のもとで副助祭、レオ4世のもとで助祭に任じられている。
858年4月17日にベネディクトゥス3世が没すると、教皇選挙に影響を及ぼそうとイタリア王ルートヴィヒ2世がローマに来た。ニコラウスは同月24日に教皇に選ばれ、皇帝が臨席するなか聖ペトロ大聖堂で叙階され、即位した。3日後には皇帝のための送別の宴を開き、その後ローマの貴族たちとともに市外の陣営を訪れた。皇帝は教皇を迎え、しばらく馬の口を取って歩いたと伝えられる。当時の西ヨーロッパはイスラム勢力やノルマン人の侵入に脅かされ、精神的にも政治的にも不安定であった。そのなかでニコラウスは、教会におけるローマの首位を自覚し、キリスト教道徳と神の法を守るという高い使命感に満ちた教皇として現れたと評される。ルートヴィヒ2世やビザンツ軍と協力して南イタリアでのイスラム勢力の前進を一時的に食い止め、オスティアの防備も固めた。
在位中は強硬な姿勢で教会の規律を正していった。ラヴェンナ大司教ヨハンネスは教皇領の住民を圧迫し、下位の司教に暴力をふるい、聖職者を不法に投獄し、文書を偽造して教皇座への主張を支えたとされる。三度の召喚に応じなかったため破門され、860年秋のローマ教会会議で一度は逃げ出したが、861年11月の会議で教皇に服従した。その後も破門と服従を繰り返している。ランス大司教ヒンクマールとの間では、861年のソワソン教会会議で罷免されたソワソン司教ロタドの訴えをめぐって教皇の権限が争われ、ヒンクマールも重要な訴訟を教皇が裁く権利を最終的に認めた。教皇は、信仰と道徳に関しては王を含むすべてのキリスト教徒に対して上に立つと主張した。
結婚の問題でも譲らなかった。ボゾ伯の妻イングルトルードが愛人のもとへ走ると、教皇はシャルル禿頭王の領内の司教たちに、彼女が夫のもとへ戻らなければ破門せよと命じた。またロタール2世が正妃テウトベルガとの離婚を望み、愛人ヴァルドラーダとの結婚を図ると、ニコラウスは離婚に強く反対した。離婚に賛同する会議が開かれても、その決定を無効とし、使者を破門した。カロリング家がローマを包囲するほどの圧力をかけたが、教皇の判断は覆らなかった。離婚に賛同した二人の大司教も罷免している。
東方との関係も冷え込んだ。ニコラウスが、罷免されたコンスタンティノープル総主教イグナティオスを支持し、代わって就いたフォティオス1世に反対したためで、ブルガリアをローマの支配下に留めようとする圧力なども加わって、ローマとコンスタンティノープルの対立は深まった。867年11月13日に死去した。在位は9年6か月19日であった。教皇権の強化に決定的な影響を与えたことから「大教皇」とも呼ばれ、17世紀以降はカトリック教会で聖人として崇敬されている。
同じ年に亡くなった人物
- ミカエル3世 (867年没)
- Eberhard of Friuli (867年(推定))
- Galindo Aznarez I (867年)
- サリ・アル=サガティ (867年)
- エラ (867年没)
同じ地域に関係する人物
- マリノス (古代の地理学者) (130年没)
- バルトロメオ・パッカ (1844年没)
- アンヘル・サンス・ブリス (1980年没)
- エミリオ・コロンボ (2013年没)
- フランチェスコ・ガスパリーニ (1727年没)