伝記
アレクサンドル・デュマは、1802年7月24日に北フランスのエーヌ県ヴィレル・コトレで生まれ、1870年12月5日に没した19世紀フランスの小説家、劇作家である。『椿姫』を書いた息子アレクサンドル・デュマ・フィスと区別して、大デュマ(デュマ・ペール)と呼ばれる。
父トマ=アレクサンドル・デュマ将軍は、仏領サン=ドマング(現ハイチ)で、侯爵と黒人奴隷女性の間に生まれた混血の私生児であった。デュマ将軍はナポレオンのエジプト遠征に従軍した際、遠征を「ナポレオンの個人的野心に基づくもの」と批判して関係が悪化し、帰国した。息子の誕生から4年後の1806年に亡くなると、遺された妻子には収入がなく、母は子を連れて実家に戻り、母方の祖父母が彼と妹を育てた。生家は宿屋だったという。9歳のとき正規の学校ではなく、近所の神父の塾に入れられたが、ラテン語と文法を少し習っただけで、習字以外は進歩せず、森の自然の音に耳を傾ける森の子供であったと、後年の『わが回想』に自ら語っている。
演劇に目を開かせたのは、同い年のアドルフ・ド・ルーヴァンであった。1820年から翌年ごろ、二人でヴォードヴィルの台本を数編書いたが、上演には至らなかった。ルーヴァンは名優タルマにも引き合わせ、田舎の公証人の書記だと言う青年をタルマは詩人として洗礼するといって励ましたという。1823年、父の友人フォア将軍のおかげで、のちの国王ルイ=フィリップとなるオルレアン公の秘書課に職を得て、母をパリに呼び寄せた。同じ頃、隣人の縫製業カトリーヌ・ラベーとの間に翌年子が生まれた。それが小デュマである。デュマは次々と女性に手を出し、私生児は彼だけではなかった。1840年には女優イダ・フェリエと結婚した。
1828年、5幕の韻文劇『クリスチーヌ』を仕上げて王室代表委員のテイラー男爵に読み聞かせたが、上演は延期され、代わりにフランスの歴史に新しい題材を求めた。それが5幕散文ドラマ『アンリ三世とその宮廷』である。1829年2月10日にフランス座で初演され、翌年のユーゴーの『エルナニ』に先立って、本格的なロマン主義演劇の幕開けとなった。この成功で一躍ロマン派演劇の旗頭となり、自らの不倫体験を題材にした『アントニー』(1831年)は社会現象にすらなった。『ネールの塔』(1832年)、『キーン』(1836年)、『カリギュラ』(1837年)などが続き、パリのあらゆる劇場で上演された。生涯に書いた戯曲は総数117とされ、すべて上演された。
1836年に日刊紙が連載小説を載せ始めると、バルザックやシューらと並んで新聞小説の花形になった。『三銃士』(1844年)、『二十年後』(1845年)、『ブラジロンヌ子爵』(1847年)の三部作や、『モンテ・クリスト伯』(1844年〜1846年)、『王妃マルゴ』(1845年)などの歴史小説を発表し、多作家として一世を風靡した。生前は何度も著作権訴訟を起こされ、共作者を黒子にして小説工場と揶揄する向きもあり、『三銃士』で協力したオーギュスト・マケとの訴訟はデュマの名誉を汚した。研究が進んだ現在では、共作者が何人かいたことは確かでも、原作者デュマの存在を否定できないことが示されている。
同じ年に亡くなった人物
- テレーゼ・アルベルティン・ルイーズ・ロビンソン (1870年没)
- Johann Heinrich Blasius (1870年没)
- David Octavius Hill (1870年没)
- ハインリヒ・グスタフ・マグヌス (1870年没)
- オーギュスト・デュメリル (1870年没)
同じ地域に関係する人物
- エミール・ヴェルハーレン (1916年没)
- アルマン・サラクルー (1989年没)
- ベラ1世 (844年没)
- Antoine-Vincent Arnault (1834年没)
- ロバート・クレイマー (1999年没)