伝記
サー・ジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルは、1792年3月7日に生まれ、1871年5月11日に没したイギリスの天文学者・数学者である。化学者、発明家、実験的な写真家としても活動した博識家で、準男爵に叙され、王立協会フェローでもあった。天王星を発見した天文学者ウィリアム・ハーシェルとメアリ・ボールドウィンの息子で、バッキンガムシャーのスラウに生まれた。天文学者キャロライン・ハーシェルは叔母にあたる。イートン・カレッジで短期間学んだのち、ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学し、1813年に首席で卒業した。在学中に数学者のチャールズ・バベッジやジョージ・ピーコックと友人になった。
1816年にケンブリッジを離れて父の仕事を手伝い、この年から天文学に取り組んで、自作の反射望遠鏡を作った。1821年から1823年には、ジェームズ・サウスとともに、父がまとめた二重星の目録を再検討した。1820年の王立天文学会の創設者の一人でもあり、同会の会長を三度務めた。1821年に王立協会から数学の業績でコプリ・メダルを贈られ、1826年に王立天文学会のゴールドメダルを受け、1836年にも再び受賞した。1825年にはフランス科学アカデミーのラランド賞も受けている。1831年に公刊した『自然哲学研究に関する予備的考察』は、観察と理論の秩序ある関係を示し、帰納的な方法を説いて、科学哲学への重要な貢献となった。この本はケンブリッジの学生だったチャールズ・ダーウィンに、貢献への「燃えるような熱意」を抱かせたという。
1833年11月13日、妻と3人の子、20インチの望遠鏡とともにポーツマスを出航した。父が始めた北天の測量を完成・拡張し、南天の星や星雲を目録にするためで、費用は自らの遺産から出した。1834年1月15日にケープタウンに着き、郊外クレアモントのフェルトハウゼンに私設の望遠鏡を据えた。この間にハレー彗星の回帰を観測し、王立天文台長トーマス・マクリアと協力して、両家は親しい友人となった。1837年12月にはエータ・カリーナの大噴火も目撃した。1838年に帰国するまでの4年間の観測は、のちに『1834-38年のあいだに喜望峰でなされた天文学的観測の結果』にまとめられた。
1849年の『天文学概論』では、日数や時間の計算にユリウス通日を用いる方法を考案し、これが世界中の天文学者に広まった。同書で、1836年頃にベテルギウスの変光を発見したことも発表している。土星の衛星7つと天王星の衛星4つの名付け親でもある。写真の分野では、「写真」「ネガ」「ポジ」という名称を提案し、定着にチオ硫酸ナトリウムを用いることを提案、1842年に青写真(シアノタイプ)を発明した。妻マーガレット・ブロディ・ステュワートとの間に3人の息子と9人の娘をもうけ、長男ウィリアムは指紋による個人識別の研究で、次男アレグザンダーは天文学者として彗星と流星の関係の研究で知られる。1864年には星雲星団の総合カタログを刊行した。1831年にロイヤル・ゲルフ勲章ナイトとなり、1847年に準男爵に叙された。また、乱視は角膜の不整によるものと正しく考え、角膜に動物性のゼリーを入れたガラスの容器を当てれば視力を改善できると論じた。ジョン・ハーシェルが望遠鏡で月に生命を発見したとする、アメリカの新聞『ザ・サン』の捏造記事が出たこともあった。
同じ年に亡くなった人物
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- テレーゼ・フォン・ナッサウ (1871年没)
- モーリッツ・フォン・シュヴィント (1871年没)
- フリードリヒ・ハルム (1871年没)
- エドワード・ロウ (初代エレンボロー伯爵) (1871年没)
同じ地域に関係する人物
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