伝記
オーガスタス・ド・モルガンは、1806年6月27日にインドのマドゥライで生まれたイギリスの数学者であり、論理学者である。論理積、論理和、否定を結びつける「ド・モルガンの法則」の発案や、「数学的帰納法」という語の考案とその原理の定式化で知られる。父ジョンは英国陸軍の中佐(英国陸軍中尉とする資料もある)で、東インド会社に仕えていたため、息子はインドで生まれたが、生後7か月のころ一家はイングランドに戻った。母エリザベスは、逆対数表を計算した数学者ジェームズ・ドットソンの孫娘にあたる。ド・モルガンは生後数か月のうちに片目が見えなくなったという。父も祖父もインド生まれだったため、自分はイングランド人でもスコットランド人でもアイルランド人でもなく、どこにも属さない「ブリトン人」だと冗談めかして語ったとされる。
10歳で父を亡くした。数学の才能は14歳まで周囲に気づかれず、家族の友人が、定規とコンパスでユークリッドの図を精巧に描いている姿を見つけて気づいたという。中等教育は、数学より古典を好むオックスフォード大学オリオル・カレッジのフェローのもとで受けた。1823年、16歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学し、ジョージ・ピーコックやウィリアム・ヒューウェル、ジョージ・ビドル・エアリーらに学んだ。なかでもピーコックとヒューウェルは、彼が代数学と論理学を研究の道に選ぶうえで影響を与えた。数学の優等試験では4位の成績で文学士の学位を得たが、修士号を取ってフェローの資格を得るには神学的な試験を受ける必要があった。英国国教会の信徒として育ったものの、この試験を受けることに強く反対し、学界で進めなくなったため、法曹院に入って法律家の道を探った。
当時のオックスフォード大学とケンブリッジ大学は、学者に神学的な試験を課し、ユダヤ人や国教会に従わない者に門戸を閉ざしていた。ロンドン大学(現在のユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)は1826年にそうした制約のない学校として創設され、1828年の開校を前に、数学の教授職を含む24の空席の募集を出した。ド・モルガンはこれに応募し、21歳の1828年2月23日に数学教授に任命された。同大学の評議会はチャールズ・バベッジとジョン・ハーシェルを招けずにおり、最終的に31人以上の候補者の中から彼が選ばれた。この時期の仕事は数学教育が中心で、最初の出版は『代数学原論』(1828年)の翻訳で、続いて長く使われた『算術原論』(1830年)や、数学教育を論じた『数学の学習とその困難』(1831年)を出した。
その後、教授陣と学長レナード・ホーナーら当局との対立が続くなか、解剖学教授の無能を訴える医学生の抗議への対応をめぐって争いが起こった。ド・モルガンらは学生に決定への影響力を与えるべきではないと主張したが、大学は学生の圧力に屈して教授を解任した。彼は1831年7月24日に辞職した。有用知識普及協会にも1827年3月から関わり、多くの本や、『ペニー百科事典』の700を超える記事を書いた。晩年はスピリチュアリズムに傾倒し、透視などの超心理学を研究し、ウィリアム・クルックスは彼の影響でそれに傾いたとされる。1852年には、フランシス・ガスリーが発案した四色問題を定式化した。1871年3月18日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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