伝記
ハサン・アスカリーは、シーア派・十二イマーム派の第11代イマームである。名はハサン・イブン・アリー・イブン・ムハンマドといい、846年末にマディーナで生まれ、874年1月初めに没した。父は第10代イマームのアリー・ハーディー、母はサリールである。「アスカリー」は軍隊を意味するアラビア語にちなむ呼び名で、軍部隊の駐屯する都市で人生の大部分を送ったことによる。沈黙する者、清められた者といった称号でも知られる。
生地についてはマディーナとする説が多いが、父がアッバース朝のカリフ・ムタワッキルに疑われてサーマッラーへ移される時期と重なるとして、マディーナかサーマッラーか分からないともいわれる。父一家のサーマッラー到着の時期も、848年とも857年ともされ、一定しない。いずれにせよ生涯の大部分をサーマッラーで過ごし、巡礼のとき以外はそこを離れなかったとされる。アッバース朝カリフの監視下で自宅に軟禁され、バグダードへ行くことを許される場合も、必ず警護と監視が付いた。父と同様に軍隊のなかに住まわされたため、父子は「二人のアスカリー」と呼ばれた。当時のカリフは政治の実権を握るトルコ人やベルベル人の軍人に左右される弱い存在であった。
ハサンがイマームとなったのは、十二イマーム派の信じるところでは、父の死後の254年(ヒジュラ暦)、22歳のときである。就任当初は比較的自由で、自宅や路上でシーア派の人々と会っていた。しかし、資金の収集や代理人への書簡、一部の統治者との連絡といった活動をカリフのムウタッズに疑われ、就任2年目に投獄されたという。ムウタッズは暗殺の陰謀をいくつかめぐらせたが実行されず、まもなく死んだとされる。20歳のとき、ムスタイーンに敵対する統治者へ宛てた書簡で、カリフを「反逆者」と呼んで退位を神に祈ったとも伝わり、その後ムスタイーンは廃位された。サーマッラーでは主にクルアーンとイスラーム法の教授にあたり、トルコ語やペルシア語などを話したともいわれる。生涯の大半を監禁されて過ごしたにもかかわらず学識は非常に深く、後世の学者に利用されるクルアーンの解釈書を編纂した。
ハサンは27歳(28歳とも)で没した。毒殺であったとされ、アッバース朝カリフのムウタミドが毒を与えたとも、何らかの関与があったともいわれる。葬儀にはムウタミドも含む多くの人々が参列した。墓所は父の眠る地、現在のサーマッラーのアスカリー・モスクにあり、多くのムスリム、特にシーア派の聖廟となっている。このモスクは2006年2月22日の爆弾事件で非常に大きな被害を受けた。語り継がれる言葉には、アッラーを信じることとムスリムの益になることに優る特質はない、というものがある。
ハサンの死に際して、さしたる混乱は見られなかった。ただし十二イマーム派は、ハサンには父の没したときに5歳であった息子ムハンマド・ムンタザルがいて、アッバース朝の目から逃れて身を隠したのだと信じる。このムハンマドは、終末にこの世に再び現れて世界に公正と平和をもたらすマフディーと信じられている。一方、多くのスンナ派のムスリムや学者は、その存在に疑義を呈している。シーア派には、弟ジャアファルが葬儀の礼拝を導こうとしたとき、一人の少年が現れて、イマームの葬礼拝を導けるのはイマームのみだと告げ、ジャアファルが脇に退いたという逸話も語られる。
同じ年に亡くなった人物
- Unruoch III of Friuli (874年)
- ヨハネス8世 (対立教皇) (874年)
- サロモン (874年)
- ギーゼラ (ルートヴィヒ1世の娘) (874年(推定))
- ハバシュ・ハースィブ (874年没)
同じ地域に関係する人物
- バッターニー (929年没)
- ムウタッズ (869年没)
- アリー・ハーディー (868年没)
- アブー・オマル・アル=シシャーニー (2016年没)
- アブー・アイユーブ・アル=マスリー (2010年没)