HISTORICAL PERSON · 875年没

ムスリム・ブン・ハッジャージュ

9世紀イランのハディース学者で、ニーシャープール生まれ。ハディースを精選し、スンナ派で最も権威ある2つの真正集の1つ『サヒーフ・ムスリム』を編んだ。生涯の友となるブハーリーと故郷で出会った。

生涯
875年没
死亡地
イラン共和国(ラザヴィー・ホラーサーン州 / ニーシャープール)
出生地
イラン共和国(ニーシャープール)
出典
世界地図
イラン共和国(ラザヴィー・ホラーサーン州)

伝記

ムスリム・ブン・ハッジャージュは、9世紀イランのハディース学者である。スンナ派で最も権威があるとされる二つの「真正集」のうち、ブハーリーのものに次ぐ一書『サヒーフ・ムスリム』を著した。特にイランではモスレム・ニーシャープーリーとも呼ばれ、信者からはイマーム・ムスリムと呼ばれる。アラビア語の尊称や父祖の名を合わせた正式な名は、アブル・フサイン・アサーキルッディーン・ムスリム・ブヌル=ハッジャージュ・ブン・ワルド・ブン・カウシャーズル=クシャイリー・アン=ナイサーブーリーという。

アッバース朝時代のホラーサーン属州の町ニーシャープールに生まれた。生年は諸説あり、ヒジュラ暦202年(西暦817・818年)、204年(819・820年)、206年(821・822年)とする説が挙げられ、ほかに201年とする説もある。14世紀の歴史家は、204年とされるが自分はもっと前の生まれだと思うと述べ、13世紀のイブン・ハッリカーンは、どの高名な学者の文献にも確かな記録を見つけられなかったという。ただ、ヒジュラ暦261年ラジャブ月25日(西暦875年5月)に55歳で亡くなり、ニーシャープール郊外のナーサラーバードに葬られたとする記録があり、これに基づいて生年を206年と計算する学者もいる。没年については学者の見解が一致している。

呼び名のクシャイリーは、アラブのクシャイル部族に属することを示す。父系の先祖の一人が、正統カリフ時代にペルシアの新征服地へ移り住んだクシャイル部族の移住者だとする解釈もあるが、ムスリム自身はアラブ系ではなく、異教からイスラームに改宗したマワーリーだったとする説もある。先祖は部族の有力者に仕えた奴隷で、解放とともにイスラームを受け入れたのだろうといわれ、部族に協力して結びついたことからその名で呼ばれたとする説もある。一方、この部族の出で、家族が約二世紀前にイランへ移ったとする学者もおり、意見は分かれている。

若いころ、ヒジャーズ地方、エジプト、シリア、イラクを旅して回ってハディースを集め、アフマド・イブン・ハンバルら名高い師に学び、故郷のニーシャープールへ戻って、生涯を送った。この地で、生涯の友となるブハーリーに出会った。弟子には、ティルミズィーなどがいる。著作として伝わる十二点のうち、現存するのは『サヒーフ・ムスリム』を含む四点で、残りは散逸した。ほとんどはハディース学と伝承経路に関する著作である。

『サヒーフ・ムスリム』は、世に流布するハディースを精選し、真偽を見極めて編纂したもので、スンナ派ではクルアーンに次ぐ権威の二大真正集の一書に数えられる。ところが、その地位が定着した経緯はあまり研究されていなかった。研究者のブラウンは、正典化の過程があったことを明らかにしている。最初にその価値に気づいた学者がいた一方、同時代の学者の中には当初これを認めず、ムスリム自身が真正と認めたハディースを多く取り除いたとか、不良とされた伝承者のハディースを入れたとか非難する者もいた。のちには称賛を送る学者が現れ、評価は徐々に高まって、ブハーリーの真正集に次ぐものとみなされるようになった。収録されたハディースの数は、数え方によって3033から12000までの幅があり、約2000はブハーリーの真正集とも重なるという。

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