伝記
ジュゼッペ・マッツィーニは、1805年6月22日にジェノヴァで生まれたイタリア統一運動の政治家・革命家で、カヴール、ガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人である。生まれたとき、ジェノヴァはフランス第一帝政に併合されたばかりだった。父ジャコモは大学の医学部教授でジャコバン主義に共鳴し、母マリア・ドラーゴは美貌と、ジャンセニスムに根ざした信仰心で知られた。病弱ながら聡明で、早くから政治と文学に関心を示し、14歳で大学に入って1826年に法学の学位を得た。当初は「貧しい人々の弁護士」として働いた。歴史小説家か劇作家になることも望み、ダンテの愛国心を論じた最初の評論を1827年に発表した。フォスコロやバイロンを敬愛し、ロマン主義の文人たちの輪に加わって、古典主義者との論争にも参加した。1828年から翌年にかけてジェノヴァの新聞『インディカトーレ・ジェノヴェーゼ』に協力し、続いてリヴォルノの『インディカトーレ・リヴォルネーゼ』でも主要な書き手となったが、どちらも当局に閉鎖された。
1827年にトスカーナを訪れてカルボナリに入党した。しかし革命をめざす活動はすぐに法の追及を受け、1830年10月31日にジェノヴァで逮捕されてサヴォーナに拘禁された。翌年初めに釈放されたが小さな村に軟禁されることになり、亡命を選んでジュネーヴに移った。カルボナリの組織に限界を感じ、1831年にはマルセイユで新たに「青年イタリア」を結成した。モットーは「神と人民」で、半島に分かれる国々を一つの自由な共和国にまとめることを目的とした。民衆の蜂起によって統一イタリアが生まれ、ヨーロッパ全体の革命運動にも火がつくと信じていた。青年イタリアは1833年には約6万人の支持者を数えたというが、その年に企てた蜂起は計画が発覚し、12人が処刑され、親友のヤコポ・ルッフィーニは自殺した。マッツィーニは欠席裁判で死刑を宣告された。彼は同様の目的をもつ「青年ドイツ」「青年ヨーロッパ」などの組織も創設した。思想的にはサン=シモンの進歩論と共同社会論を支持し、平等主義を唱えるブオナローティとは対立した。1837年にロンドンへ渡るとチャーティスト運動に接し、労働運動の重要性を認識した。
1848年革命に際して「ローマ共和国」が樹立されると、アウレリオ・サッフィ、カルロ・アルメッリーニとともに三頭執政官の一人になった。この共和国はルイ=ナポレオンの軍事介入で短命に終わったが、イタリアの自由主義とナショナリズムはなお高まった。亡命した彼は、外国からミラノやジェノヴァの革命運動を指導した。だが理想に重きを置く主張は次第に支持を失い、イタリアのナショナリストたちはサルデーニャ王国と首相カヴールに期待を寄せるようになった。やがてカヴールとガリバルディらの活躍で成立したイタリア王国は、彼が説いた共和国とは程遠いものだった。1864年には第一インターナショナルに参加したが、マルクスらと対立し、神への信仰と私有財産を否定する社会主義を批判した。1871年のパリ・コミューンも民族統一の解体を招くと否定し、バクーニン派とも対立して脱退した。イタリア議会に選ばれたが、君主制への反発から議席を拒んだ。1872年3月10日にピサで死去した。彼の運動はイタリア共和党に受け継がれ、1990年代まで活動を続けた。
同じ年に亡くなった人物
- フランツ・グリルパルツァー (1872年没)
- フェリックス・アルシメード・プーシェ (1872年没)
- Dimitrios Demeter (1872年没)
- メアリー・サマヴィル (1872年没)
- フーゴー・フォン・モール (1872年没)
同じ地域に関係する人物
- マリー・ドルレアン (1813-1839) (1839年没)
- エレオノーラ・ディ・トレド (1562年没)
- グレゴリウス8世 (ローマ教皇) (1187年没)
- マリア・アンナ・カロリーナ・ディ・サッソニア (1832年没)
- ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ (1289年没)