伝記
バルデュリス(バルデュリアとも表記される)は、紀元前4世紀前半のイリュリアの王であり、記録に残る最初のイリュリア人の王朝を興した人物である。生年は分かっておらず、没年は紀元前358年とも357年ともされる。治世のあいだ、イリュリアを地域の大国に押し上げてマケドニアに干渉することをめざし、南部のイリュリア諸部族の多くを自らの支配のもとにまとめ上げた。
その王国の中心は、オフリド湖から東のプレスパ湖にかけての一帯にあったとする研究者が多い。この地域は後のローマ時代にダッサレティスと呼ばれ、マケドニアとエピロスの境に位置していた。バルデュリスはマケドニア人やモロッソイ人を幾度も破り、リュンケスティスを含む上マケドニアにまで支配を広げた。さらに傀儡の王を立ててマケドニアそのものにも影響を及ぼしたという。エピロスに対しても襲撃を繰り返したが、その兵はやがて地域から追い払われた。マケドニアが台頭する以前には、イリュリア人がこの地方で優勢な勢力であったとされる。
古代の記録によれば、バルデュリスは90歳を超えるまで長く生きた。紀元前358年、高齢の身でマケドニアのピリッポス2世と対決することになる。バルデュリスは征服した土地を保持したままでの和平を申し出たが、ピリッポスはこれを退けた。戦いははじめ互角で、双方の勇戦によって多くの死傷者が出たが、やがて騎兵が側面と後方から攻めかかり、ピリッポスが精鋭を率いて奮戦すると、イリュリア軍の大勢は総崩れとなって逃走した。追撃は遠くまで続き、7,000人以上のイリュリア人が討たれたといい、これは当初の兵力のおよそ4分の3にあたるという。バルデュリス自身も、馬上でこの戦いに加わっていて命を落としたらしい。
戦いのあと、イリュリア側は使者を送って和を結び、マケドニアから奪っていた都市をすべて手放した。リュンケスティスの問題はこれで片づき、マケドニアの西の国境はマケドニア側に有利な形となった。ピリッポスはオフリド湖に至るイリュリアの領土を併合して北西の国境を固め、ドリロン渓谷を通るイリュリアの襲撃に対する防壁としたとされる。両者の境界は、その後も長くオフリド湖付近にとどまった。
バルデュリスにはクレイトスという息子がいた。クレイトスは紀元前335年、タウランティオイ人の王グラウキアスの助けを得て、ペリオン包囲のさなかにアレクサンドロス大王に対して反乱を起こした。クレイトスの子はバルデュリス2世と考えられ、その娘ビルケンナは、紀元前290年ごろにエピロスのピュロス王と結婚したという。また、バルデュリスの娘または孫娘アウダタは、ピリッポス2世の妃となった。ピリッポス2世とアレクサンドロス大王は、若いころの少なくとも一時期をイリュリアの宮廷で過ごし、その習俗や軍事の技を身につけたともされ、イリュリア人はマケドニアの軍の発展にも小さくない役割を果たしたといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- カブリアス (紀元前357年没)
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