伝記
ルイ3世は、西フランク王国(カロリング朝)の国王で、在位は879年から882年であった。ドイツ語ではルートヴィヒ3世とも呼ばれる。863年とも865年ともいわれる年に、サン=ドニで生まれた。父はアキテーヌ王でもあったルイ2世(吃音王)、母はその最初の妃アンスガルドで、二人の長男である。両親が密かに結婚し、のちにアンスガルドが祖父シャルル2世の強い求めで離縁された経緯があり、若いころのルイの嫡出性には疑いがつきまとったという。
877年に祖父シャルル2世が亡くなり、続いて879年4月10日に父ルイ2世が世を去ると、ルイは弟カルロマン2世とともに王位に即いた。貴族の一部はルイを単独の王とするよう主張したが、兄弟がそれぞれ王国の一部を治めることを望む一派もあり、結局、二人がともに王に選ばれた。その正当性には疑問が投げかけられ、ルイを真の王と認めない者も多かったとされる。それでも二人の即位は承認され、879年9月にはフェリエール修道院で戴冠した。880年3月、二人はアミアンで父の遺領を分け、ルイはネウストリアを、カルロマンはアキテーヌを相続した。同じ880年には、東フランクとの間でリベモン条約が結ばれ、ロタリンギアの西部が東フランクに与えられて、対立はなだめられた。
しかし、この分割を機に、シャルル2世の腹心であったプロヴァンス公ボソが二人への忠誠を拒み、プロヴァンス王を名乗った。880年の夏、ルイとカルロマンはボソに対して兵を動かし、マコンとボソの領地の北部を奪った。従兄弟にあたる東フランク王カール3世の軍勢も加わり、8月から11月にかけてヴィエンヌを包囲したが、攻略は成らず、費用がかさんで戦いを続けられなくなり、ルイは敗北を受け入れた。
そのころ、ヴァイキングの襲来が急に激しさを増していた。彼らはフランク諸王国の都市を次々に襲い、880年11月から881年7月の間に、コルトレイク、アラス、カンブレー、アミアン、コルビーなどを落としたとされる。881年8月、ルイは弟とともにソクール=アン=ヴィムーでヴァイキングを迎え撃ち、奇襲をかけて大勝した。『フルダ年代記』によれば、襲撃者の死者は約9000人にのぼり、重要かつ決定的な勝利となった。当時まだ十代であったルイは、東西のフランク王国の人々から広く称えられ、東フランクでは古高ドイツ語の詩『ルートヴィヒの歌』がその勇敢さと敬虔さをたたえ、西フランクでも、数百年後に戦いに着想を得た武勲詩が書かれた。
しかし、この勝利は結果として大きな成果には結びつかなかった。ルイは翌年の882年8月5日、サン=ドニで狩猟中の事故がもとで世を去った。子がなかったため、弟のカルロマン2世が単独の王となった。同時代の人々は、ルイを短い治世のなかで民に慕われた、有能で精力的な王として伝えている。
同じ年に亡くなった人物
- アスコルド (882年没)
- ルートヴィヒ3世 (東フランク王) (882年没)
- ガルシア・イニゲス (882年(推定))
- Rorik of Dorestad (882年)
- ヨハネス8世 (ローマ教皇) (882年没)
同じ地域に関係する人物
- カジミール・オイエ・ムバ (2021年没)
- ルイ・クロード・ド・サンマルタン (1803年没)
- Jeanne Duval (1868年没)
- マリー・ド・ロアン=モンバゾン (1679年没)
- アダム・イエジィ・チャルトリスキ (1861年没)