伝記
エドワード・ブルワー=リットンは、1803年5月25日にロンドンのベイカー・ストリートで生まれた、ヴィクトリア朝イギリスの小説家、劇作家、政治家である。初代リットン男爵の称号を持ち、作品は60冊を超え、一時はディケンズに匹敵するほどの人気を誇った。父はノーフォークの地主で陸軍大将のウィリアム・アール・ブルワー、母は名家の相続人エリザベスで、エドワードは三男(末子)であった。父や母方の祖父母には存在を無視されて育ち、母だけが彼を溺愛した。父は1807年に没した。少年期の大半は母方の館ネブワースで読書に明け暮れて過ごし、この館は彼にとって理想郷となって、のちの貴族主義的でロマン派的な信念の源になったとされる。定まった学校には通わず、おおむね独学で、イートン校の入学は自ら断った。
1820年の夏、ケンブリッジ大学進学の準備中に、湖水地方で「ルーシー」という少女に恋をした。彼女は不本意な結婚をさせられ、のち世を去り、リットンは墓前で泣き崩れて作家になる決心をしたと自伝に記した。彼女は、小説に繰り返し描かれる孤独な女性のモデルになったという。ケンブリッジ大学では優れた才能がありながら横柄さから友人ができず、孤独を深め、バイロンの元愛人キャロライン・ラムとも一時関係を持った。ゲーテとシラーに学んだ影響から、のちの小説には「遍歴」「修行」を主題とするものが多い。1827年8月にアイルランド人の女性ロジーナと結婚したが、母は不満で小遣いを減らし、贅沢な暮らしの夫婦は収入のために多作の作家とならざるをえなかった。
同年、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に影響を受けた小説『フォークランド』を出し、1828年6月の『ペラム』は、ダンディ・ノベルとして話題を集めた。1834年には『ポンペイ最後の日』を発表し、1833年から翌年にかけてロジーナとイタリアを旅した経験は、イタリアを舞台にした作品に結実した。しかし社会道徳に挑む小説が批評家に批判され、文壇との確執が生じて、生涯を通じてその周縁に置かれた。劇作家としても活躍し、1838年の『リヨンの婦人』で大成功を収め、1839年の『リシュリュー』には「ペンは剣よりも強し」の名高い一句がある。
政治では、1831年にホイッグ党の庶民院議員となり、1838年に準男爵に叙された。1841年に落選し、公の場での演説は不得手で、政治家として一流にはなれなかった。1843年12月に母が亡くなってネブワース・ハウスを相続し、翌1844年に「ブルワー=リットン」と改姓した。1852年に再び庶民院議員となり、保守党に属して穀物法の廃止に反対し、1858年から1859年には第2次ダービー伯内閣の植民地大臣を務めた。イギリス領カナダでの新たな植民地の創設にあたり、オーストラリアではクイーンズランドをニューサウスウェールズから分離させた。1866年には貴族に叙され、1870年には、人間より優れた種族の暮らす地下世界を描くSFユートピア小説『来たるべき種族』を出版し、これは近代オカルティズムに大きな影響を与えた。オカルト小説『ザノーニ』や怪奇小説『幽霊屋敷』も知られる。1873年1月18日に死去し、爵位は一人息子のロバートが継いだ。妻ロジーナとは1836年に別居し、争いは世間の注目を集めた。
同じ年に亡くなった人物
- スタニスラス・ジュリアン (1873年没)
- シェリダン・レ・ファニュ (1873年没)
- フランシス・ガルニエ (1873年没)
- ピエール=ポール・グラーセ (1873年没)
- フランツ・ヴィンターハルター (1873年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・ボウリング (1872年没)
- エドモンド・モレル (ジャーナリスト) (1924年没)
- メアリー・ノートン (1992年没)
- ピート・クウェイフ (2010年没)
- ジェームズ・ブライス (1922年没)