HISTORICAL PERSON · 884年没

アフマド・ブン・トゥールーン

トゥールーン朝の創始者。エジプトの財政を掌握し独自の軍を築いてアッバース朝から事実上独立し、古代以来初のエジプト自立政権を築いた。

生涯
884年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(カイロ県 / アル=カターイ)
出生地
イラク共和国(バグダード)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(カイロ県)

伝記

アフマド・ブン・トゥールーンは、835年9月20日に生まれ、884年5月10日に没した人物で、868年から905年にかけて主にエジプトとシリアを支配したトゥールーン朝の創始者である。ここでは以下、イブン・トゥールーンと呼ぶ。恐らくバグダードで生まれ、父のトゥールーンは回鶻出身のトルコ人であった。父は815年か816年に捕虜となってカリフのマアムーンのもとへ送られ、奴隷軍人の護衛部隊に編成されたのち、カリフ個人の護衛部隊を指揮するまで出世した。854年か855年に父が亡くなると、その親友ヤルバフが後見したとも、トルコ人の将軍バーヤクバークが母と再婚して継父になったともいわれる。バーヤクバークは若いイブン・トゥールーンを実子として扱ったとされる。

青年期にはサーマッラーで軍事訓練に加わり、タルスースでイスラーム神学を学んだ。敬虔で禁欲的な生き方で評判を得て、トルコ人の同輩たちからは秘密や金銭を預けられるほど信頼された。タルスースではビザンツ帝国との国境の紛争にも従軍し、年長のトルコ人指導者ヤールジューフの娘を最初の妻に迎えて、長男と娘ファーティマをもうけた。のちにカリフの使節の隊商をベドウィンの襲撃から救ってムスタイーンに気に入られ、1,000ディナールを与えられた。866年にムスタイーンが退位してワースィトへ追放されると、その護衛に選ばれた。新カリフ、ムウタッズの母カビーハは、ムスタイーンを殺せばワースィト総督にすると持ちかけたが、イブン・トゥールーンは拒み、別の人物が殺害を実行した。彼は主君を埋葬してサーマッラーに戻った。

868年、ムウタッズがバーヤクバークにエジプトの監督を任せると、バーヤクバークは継息子を代官として派遣した。イブン・トゥールーンは同年8月27日にエジプトへ入り、9月15日にフスタートに着いた。ただし財政、とりわけ地租の徴収は、税務長官イブン・アル=ムダッビルの手にあった。イブン・アル=ムダッビルは税を倍増させて嫌われていた人物である。着任時に差し出された10,000ディナールの贈り物を、イブン・トゥールーンは断った。以後4年にわたる宮廷工作の末、871年7月にイブン・アル=ムダッビルをシリアへ転任させ、自ら地租の徴収を担った。872年までにエジプトの全行政部門を掌握し、中央政府から事実上独立した。

この間、エジプトではアリーの子孫を称するイブン・アッ=スーフィーが869年の後半に反乱を起こし、派遣軍を破ったが、のちにメッカで捕らえられて投獄された。874年か875年にはバルカ総督が反乱を起こし、軍の派遣を余儀なくされた。税制の改革や灌漑設備の整備で歳入を著しく増やし、新都をフスタートの北に建設した。

875年以降は、アッバース朝の実力者ムワッファクと公然と対立した。878年にはカリフのムウタミドの支持を得て、シリアとビザンツ帝国との国境地帯の支配権を得た。エジプトを留守にした間に権力を握ろうとした長男は投獄し、次男を後継者に指名した。882年にはカリフを迎え入れようとしたが、道中で捕らえられて連れ戻された。そこでダマスクスに法学者の会議を開き、ムワッファクを簒奪者と非難した。883年秋の国境地帯奪還は失敗し、エジプトへ戻った後の884年5月10日に没した。権力の世襲にも成功し、トゥールーン朝は短命だったが、古代のファラオの時代以来初めてエジプトに自立政権を築き、後のイフシード朝からマムルーク朝に至る政権の先駆けとなった。

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