伝記
ジュール・ミシュレは、1798年8月21日にパリのトラシ街で生まれ、1874年2月9日に没した、十九世紀フランスの歴史家である。自由主義者で反教権主義者であり、「ルネサンス」の語を学問的に使った最初の人とされる。父は印刷業者で、ラン出身のジャン・フランソワ・フュルシーという。革命期に印刷の仕事を学ぼうとパリに出て、国立印刷所などを経て自分の印刷所を構え、ミシュレは廃された礼拝堂を使った印刷所で生まれた。しかしナポレオンが印刷所の数を厳しく制限する布告を出したため、父は破産し、1808年に借金不払いで投獄された。1812年以降は職を離れ、わずかな仕事で暮らして、一家は貧しかった。母コンスタンスは、アルデンヌの農家の出身で、信心深く厳格な女性だったが、1815年に水腫で世を去った。ミシュレは回想録『わが青春』で、その夜にセネカの人生のはかなさについての文章を訳していたと記している。
父は息子に仕事を教え、帝国印刷所に職の口もあったが断り、自分は犠牲を払ってでも学校へやった。ミシュレは1809年から1812年にメロ氏の私塾でラテン語を学び、その後リセ・シャルルマーニュに進んで、1816年まで文学を学んだ。1819年に文学博士となり、プルタルコスの『英雄伝』を扱う論文などを提出して、1821年にはアグレガシオンに合格した。パリのサント=バルブ=ロラン学院で歴史の教師となり、1825年に『近代史年表』、1827年に『近代史概説』など生徒向けの教科書を著した。1827年には高等師範学校の前身で歴史と哲学を教え、ヴィーコの歴史論・哲学の影響を受けた。
1830年の七月革命を境に、王党カトリック的な立場を離れて自由主義に転じた。革命でヴィルマンやギゾーが政権に就いたこともあり、1831年に国立古文書館の歴史部長に就き、1834年にはソルボンヌ大学教授としてギゾーの講座を代行した。1831年に『ローマ史』を出し、1833年から1843年にかけて『フランス史』を刊行する。1838年からはコレージュ・ド・フランスの教授となった。以降は民主主義的・反教権的な傾向を強め、保守化した支配者ルイ・フィリップや、体制側のギゾーを批判した。1848年に二月革命が起きると熱狂的に支持した。
1852年、ナポレオン3世への宣誓を拒んでコレージュ・ド・フランスの教授の地位を追われ、晩年は隠棲して、博物誌のシリーズなどを書いた。『フランス革命史』(1847年から1853年)、『民衆』(1846年)、『鳥』(1856年)、『虫』(1857年)、『女』(1860年)、『海』(1861年)、『山』(1868年)、『魔女』(1870年)などがあり、『魔女』は映画『哀しみのベラドンナ』(1973年)の原作にもなった。『フランス史』第7巻(1855年)では、フランソワ1世以降のルネサンスを記述し、これが「ルネサンス」という用語を学問的に使った最初の例とされる。
その歴史記述は、過去を生き生きと再現し、つまびらかに描くことに特徴があった。国家や政府、人物を倫理の象徴のように見せる点には、ロラン・バルトが注目した。歴史のなかの民衆の動きを捉え、アナール学派にも影響を与えたとされる。ヴァール県のイエールで死去し、パリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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