伝記
スヴァトプルク1世は、モラヴィア王(在位870年〜871年、871年〜894年)で、モラヴィア王国の最大版図を現出した人物である。スヴァトプルク大王とも呼ばれ、ラテン語の文献ではツヴェンティボルトの名でも見える。840年ごろの生まれとみられ、モラヴィア王ラスティスラフの甥とされる。父については、12世紀の年代記がスヴェティミル、17世紀の家系図がボギスラフとするなど、一致しない。
860年代前半に台頭し、東ローマ皇帝ミカエル3世にスラヴ語のわかる宣教師の派遣を求める際には、ラスティスラフとともに依頼したと伝わる。これに応じてキュリロスとメトディオスの兄弟が863年にモラヴィアへ来た。フランク人の文献には869年に初めて名が現れ、このとき彼は大モラヴィアの中に自らの「国家」を持っていた。同年、東フランク王ルートヴィヒ2世の息子カールマン率いるバイエルン軍が彼の領国を侵略したが、彼はひそかにカールマンと連絡をとり、自身と領国をゆだねる密約を結んでいた。これを知ったラスティスラフは激怒し、宴会に招いて謀殺しようとしたといわれる。だが密告を受けていた彼は逆にラスティスラフを捕らえ、カールマンのもとへ送った。ラスティスラフはバイエルンへ追放され、領土は併合された。
しかし871年前半、カールマンは彼にも背信の罪を着せて投獄した。モラヴィアの民は彼が死んだと思い、モイミール家のスラヴォミールを君主に立てた。やがて無実とわかって釈放されると、彼はカールマンの軍勢を率いて帰国し、反乱者を討とうとした。ところが都市の外に待機していたバイエルン人が反乱側と通じて裏切った。都市を奪回した彼はカールマンへの臣従を破棄し、城壁の中から膨大な数のモラヴィア軍を召集して城外のバイエルン軍を奇襲し、これを破った。フランク人勢力はモラヴィアから駆逐され、ヴィルヘルム2世とエンゲルシャルク1世も殺されて、彼は名実ともに大モラヴィアの支配者となった。
872年にはルートヴィヒ2世が多方面から侵攻した。第一陣は一度敵と遭遇しただけで逃げ、第二陣は大多数が戦死し、第三陣のカールマンの軍はモラヴィアの地を荒らしたが、彼は速やかに大軍を召集してバイエルン人を攻撃した。873年には教皇ヨハネス8世の仲介もあり、フォルヒハイムで和約が結ばれた。詳細は不明だが、貢納の代わりにあらゆる敵対行動を止めさせる妥協策だったと考えられている。874年の和平により、フランク人の領域外へ勢力を拡大する自由を得て、882年にはパンノニア辺境領にも侵攻した。
教会政策では、彼自身はラテン典礼を支持し、宮廷で力を増すメトディオスらスラヴ典礼派の排除を企てた。880年には彼とその領民が聖座の保護を得て、教皇ステファヌス5世は885年の書簡で彼を「王」と呼んだ。885年にメトディオスが死ぬと、翌年にはその弟子たちをモラヴィアから放逐し、古代教会スラヴ語の典礼を弾圧した。彼の王国は麾下の公や新たな征服地の緩やかな連合体であり、最大版図は現在のチェコ、スロバキア、ポーランド、ハンガリーにまで至ったとされるが、現代の歴史学ではそのような広い領域の恒常的な併合は疑問視されている。894年に彼が没して間もなく、王国は息子たちの内紛とマジャル人の襲撃の激化により崩壊した。18世紀以降、スロバキアのナショナル・ロマンティシズムの中で「スロバキア人の王」と呼ばれ、民族の英雄とされることもあったが、これは歴史的には正確でない。
同じ年に亡くなった人物
- グイード・ダ・スポレート (イタリア王) (894年没)
- Ibn Abi al-Dunya (894年)
- リヒャルディス (894年)
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