HISTORICAL PERSON · 1875年没

アンドリュー・ジョンソン

アメリカ合衆国の第17代大統領。辞職しなかった唯一の南部出身上院議員で、リンカーンの下で副大統領となり暗殺後に昇格した。戦後の再建を担い、議会と対立して弾劾裁判にかけられたが1票差で免れた。

生涯
1875年没
死亡地
アメリカ合衆国(テネシー州 / エリザベストン)
出生地
アメリカ合衆国(ローリー)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(テネシー州)

伝記

アンドリュー・ジョンソンは、1808年12月29日にノースカロライナ州ローリーで生まれ、1875年7月31日に没したアメリカ合衆国の政治家である。第16代副大統領を経て第17代大統領を務めた。父ジェイコブと母メアリー・マクドノーはともに読み書きができず、居酒屋で働いていた。父は、ジョンソンが3歳のとき、溺れていた3人を救出した直後に心臓発作で亡くなり、一家は貧困の中に残された。母は洗濯で家計を支え、のちに同じく貧しい男性と再婚した。ジョンソンは学校へ通うことができず、10歳か14歳のころに洋服屋に奉公に出され、1820年代にはサウスカロライナ州の仕立屋で働いた。正式の教育は受けず、独学で読み書きを学んだ。1826年、16歳か17歳で見習いを終えると、兄弟とともにテネシー州へ移り、洋服屋の従業員として働いた。

1827年、19歳で17歳のイライザ・マカーデルと結婚し、夫妻は5人の子をもうけた。イライザは基礎的な代数までの計算をジョンソンに教え、読み書きや作文が上達するよう家庭教師もつとめた。政治家としての歩みは、1828年から1830年までのグリーンビル市会議員、1834年から1838年までの市長に始まる。その後、議員に選ばれて、1843年から1853年まで連邦議会で務めたほか、公共支出委員会の議長にもなった。みずから奴隷を所有し、奴隷制を支持していたが、脱退反対の勢力が強い東テネシーの出身で、南部諸州の脱退には反対した。1861年に南部11州が合衆国から脱退したとき、テネシー州選出の上院議員だったジョンソンは、脱退した州選出の上院議員のうち、ワシントンにとどまった唯一の人物となった。南北戦争の間はリンカーンの軍事政策を支持し、1862年にはテネシー州の軍政長官に任命されて、反乱への対処と戦後再建への移行に精力的に動いた。

1864年には国民統一党の副大統領候補に指名され、リンカーンとともに11月の選挙に勝って、1865年3月4日に副大統領に就任した。同年4月15日にリンカーンが暗殺されると、大統領職を継いだ。以後4年間、戦後の南部再建を統括したが、黒人奴隷の処遇を南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させるなど、南部に寛大な政策をとった。このため、奴隷制廃止の方向へ動いた共和党の多数派、とくにタデウス・スティーブンスら急進派と激しく対立し、拒否権を29回行使している。陸軍長官スタントンを罷免したことが、在職中の高官の罷免を禁じた法律に反するとされ、1868年2月24日に下院で弾劾訴追された。上院の採決では賛成35、反対19と、成立に必要な三分の二にあと1票足りず、辛うじて地位を保った。しかし議会との溝は決定的になり、政権は力を失ったまま、1869年3月4日に任期を終えた。この弾劾裁判の対象となった大統領は、1998年のクリントンまで他にいなかった。日本との関わりでは、1867年に幕府が派遣した小野友五郎と会談し、軍艦ストーンウォールの売却に合意した。この艦はのちの戊辰戦争で、最終的には明治政府に売却された。

退任後は、1868年の上院選挙と1872年の下院選挙で落選したが、1875年3月4日には民主党の上院議員に返り咲き、大統領経験者として唯一選ばれた。しかし、テネシー州の娘の家を訪ねた際に病に罹り、7月31日にエリザベストン近くで亡くなった。遺体はテネシー州のアンドリュー・ジョンソン国立墓地に葬られた。

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