HISTORICAL PERSON · 1875年没

ジャン=フランソワ・ミレー

19世紀フランスの画家で、バルビゾン派の代表的画家の一人。農民画で知られ、『箕をふるう人』『種まく人』『落穂拾い』を描いた。1867年のパリ万国博覧会で一室を与えられ、巨匠としての名声を確立した。

生涯
1875年没
死亡地
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県 / バルビゾン)
出生地
フランス共和国(Greville-Hague)
出典
世界地図
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県)

伝記

ジャン=フランソワ・ミレーは、1814年10月4日に生まれ、1875年1月20日に没した19世紀フランスの画家である。バルビゾン派の代表的画家の一人とされ、特に農民画で知られる。ノルマンディー地方マンシュ県のグレヴィル村グリュシー地区で農家の長男として生まれ、9人きょうだいの跡継ぎとして期待された。母はフランス革命後に没落した領主の家系の出で、父は農作業のかたわら教会の合唱指揮者を務め、絵を描くこともあった。幼いころは祖母が面倒をみてくれた。12歳ごろからラテン語を学んだが、やがて家の農作業を手伝うようになった。1832年、18歳のころに描いた、腰の曲がった老人が歩く木炭の素描に両親が感激し、シェルブールの画家のもとへ連れて行ったという。1835年に父が亡くなったため家業を継ごうと実家に戻ったが、祖母の強い勧めで再びシェルブールに出て修業を続けた。この間、開館したばかりのトマ=アンリ美術館に通い、作品を模写している。

教師に才能を見出され、シェルブール市議会とマンシュ県議会の奨学金を得て、1837年1月からパリのエコール・デ・ボザールで学び、歴史画家ポール・ドラローシュのアトリエに入った。アカデミックな授業には違和感があってあまり出席せず、ルーヴル美術館に熱心に通った。1839年にローマ賞に落選すると学校を去り、12月には奨学金も打ち切られた。1840年のサロンに肖像画で初入選し、シェルブールに戻って、1841年にポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚した。肖像画家として名声を得て、1840年から1843年に50点以上を制作したが、1844年4月21日にポーリーヌを結核で亡くした。その後、実家の反対を押し切ってカトリーヌ・ルメールと交際を始め、1845年末に二人でパリへ出て、肖像画や女性の裸体画を描いて生活した。この頃、のちのバルビゾン派の同志となるテオドール・ルソー、コンスタン・トロワイヨン、支援者となるアルフレッド・サンシエと出会った。

1848年、2月革命で共和派が実権を握り、美術界の民主化が進むなかで、サロンに出した農民画『箕をふるう人』が好評を博し、政府の注文を受けるようになった。1849年にパリでコレラが大流行し、政治的支援者も失脚したため、バルビゾンに移住してルソーらの仲間に加わった。1851年のサロンの『種まく人』は、農民の悲惨な生活を訴えるものと受け取られ、左右両派の激しい論争の的となった。1857年に『落穂拾い』を出品し、これも政治的な議論を巻き起こした。1864年のサロンの出品作が絶賛されて評価が一気に高まり、1865年以降はパステル画の注文が大量に寄せられ、1867年のパリ万国博覧会では一室を与えられて9点を展示し、巨匠としての名声を確立した。

1860年代末から体調悪化に悩まされつつ「四季」連作に取り組み、普仏戦争とパリ・コミューンでシェルブールに疎開して中断したが、亡くなった親友ルソーへの鎮魂ともいわれる『春』を完成させた。1874年ごろから急速に健康を損ね、1875年に亡くなった。1860年に1000フランで売却された『晩鐘』は、死後の1889年に55万3000フランで落札されている。サンシエの伝記を基に清貧の農民画家という「ミレー神話」が語られ、ゴッホもその影響を受けた一人である。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物