HISTORICAL PERSON · 1876年没

ジョージ・アームストロング・カスター

アメリカ陸軍の軍人。ウェストポイントを経て南北戦争に騎兵将校として従軍し、半島方面作戦で南軍の軍旗を奪う功を挙げた。マクレランの副官に指名され、その後はプレソントンの配下で重用された。

生涯
1876年没
死亡地
アメリカ合衆国(モンタナ州 / ビッグホーン郡)
出生地
アメリカ合衆国(New Rumley)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(モンタナ州)

伝記

ジョージ・アームストロング・カスターは、1839年12月5日、オハイオ州ニューラムレイに、鍛冶屋兼農民の父エマニュエル・ヘンリー・カスターと母マリー・ワード・カークパトリックの子として生まれたアメリカ陸軍の軍人である。父方の曾祖父はドイツのライン川付近から移住した人で、一族の姓はもとは「キュスター」だったと伝わる。母方はイギリス系だった。家族は彼にアームストロングと名付けたが、終生「オーティー」と呼び続けた。ミシガン州モンローで兄弟と幼い時を過ごしたのち、オハイオ州のホープデイル大学に進み、貧しい生まれのため、同級生と石炭を運んで部屋代を稼いだ。1856年に卒業したが、両親は聖職者になることを望んでいた。しかし彼は難関のウェストポイントの入学試験に合格して陸軍の士官候補生となった。1860年度のクラスで学んだ成績は芳しくなく、通常なら佐官止まりが見えている状態で、気性が激しく、しばしば騒動を起こして退学を警告されもした。

在学中に南北戦争が始まり、卒業を一年繰り上げて騎兵少尉に任官した。第一次ブルランの戦いで初陣を飾り、1862年には騎兵中尉としてマクレラン少将のポトマック軍に加わって、半島方面作戦で南軍の軍旗を奪う功績を挙げた。マクレランはその勇敢さを称賛して、彼を副官に指名した。11月にマクレランが失脚すると、カスターも中尉に戻って前線勤務に復帰した。その後、騎兵旅団を率いるアルフレッド・プレソントンの配下に入り、大きな影響を受けた。プレソントンも彼を評価し、重用した。ブランディ・ステーションの戦いでは大胆不敵な戦いぶりを示し、義勇軍准将に昇格してより大きな部隊を任された。

最大の軍功は、1863年のゲティスバーグの戦いで訪れた。戦いの3日前に将軍に昇進していた彼は騎兵旅団の司令官として参戦し、7月3日にはスチュアート将軍の騎兵攻撃を、グレッグ准将の旅団とともに迎え撃って、激しい白兵戦の末に撃退した。その後はフィリップ・シェリダンの配下に移り、手柄を立て続けて23歳で義勇軍少将に昇進し、「少年将官」と呼ばれる名声を得た。降伏の場であるアポマトックス・コートハウスにも北軍代表として加わった。降伏文書に署名した机は、シェリダンの好意で、カスターの妻への贈り物となった。妻は1864年2月9日に結婚したエリザベス・「リビー」・ベーコンである。猛然と突撃する彼の部隊は多くの死者を出しつつも軍功を重ね、彼自身は戦争中一度も負傷せず、強運の男としても知られた。

戦後、将校の階級調整で正規軍の階級に戻り、1866年に軍を除隊した。政治家への転身も考え、民主党を支持してレコンストラクションに消極的な反対を表明した。のちにシェリダンの推薦で陸軍中佐として第7騎兵隊の連隊長になり、1867年からインディアン戦争に参加した。1868年11月27日には、ワシタ川べりで野営していたシャイアン族のブラック・ケトルのバンドを急襲した。これは戦いというより一方的な虐殺だったとされ、上官たちから称賛を受けたが、以後の対インディアン政策に大きな影響を与えた。1874年にはブラックヒルズに侵入して金を発見し、ゴールドラッシュを引き起こした。1876年6月25日、インディアンとの戦いで戦死した。

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