HISTORICAL PERSON · 紀元前338年没

孝公 (秦)

戦国時代の秦の第25代公。国政の立て直しを布告して魏から来た商鞅を起用し、変法を断行して秦を中央集権国家に変えた。都を咸陽に遷し、魏を破るなど富国強兵に努めた中興の祖。恵文王の父。

生涯
紀元前338年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

孝公は、中国戦国時代の秦の第25代の君主である。姓は嬴、諱は渠梁といい、献公師隰の嫡子にあたる。のちの恵文王と樗里疾の父であり、商鞅を登用して大改革を行い、衰えていた秦を強力な中央集権国家へ変えた中興の祖として知られる。紀元前338年に没した。

父の献公は国境の安定に努め、都を櫟陽へ移して、魏に奪われた河西の地を取り返そうとしたが、果たせずに世を去った。孝公元年は紀元前361年とされる。この年を含む即位のころには、秦の政権交代につけ込んで趙と韓が共同で攻め込んだともいわれる。孝公の時代、黄河と華山より東には斉の威王、楚の宣王、魏の恵王、燕の文公、韓の哀侯、趙の成侯という六つの強国があった。楚と魏は秦と境を接しており、魏は洛水に沿って長城を築き、北は上郡まで領土を広げていた。秦は西の僻地の雍城に都を置いていたため、中原の諸侯から夷狄と同じように見られ、会盟にも招かれなかった。孝公は穆公の覇業を取り戻そうとして、孤児や寡婦を救い、戦士を優遇し、論功行賞を公平にすると国中に布告した。国を強くする策を持つ人材を求める布告でもあり、応じた者には高い官職と領地の褒賞を約束したという。この年のうちに、東は陝城を包囲し、西は戎の豲王を斬る成果をあげた。

布告を聞いて魏から秦へ入ったのが、衛の公孫鞅、のちの商鞅である。景監の取り次ぎで孝公に会ったが、最初の二度の謁見では孝公は話に身が入らず、居眠りさえしたという。三度目には話を気に入った様子を見せ、四度目には議論に熱中して数日続けても飽きなかった。こうして孝公は衛鞅を信頼し、世論の非難を恐れてためらっていた国政の抜本的な改革に踏み切った。反対論が出たが、孝公は衛鞅の考えに賛成し、彼を左庶長に抜擢して改革を命じた。時期は紀元前359年とも、『史記』六国年表では紀元前356年ともされる。

改革後、秦の国力は次第に強まった。紀元前358年に西山で韓を破り、翌年には楚の要請により孝公の娘を嫁がせ、紀元前355年には魏の恵王と杜平で会盟した。紀元前354年には魏が趙と戦った隙を突いて魏の河西を攻めて元里で魏軍を破り、少梁も取った。紀元前352年に衛鞅が大良造となり、魏の旧都安邑を包囲して降し、秦の領域は東へ洛水を越えた。紀元前351年には衛鞅が固陽を攻め落としている。紀元前350年には魏の恵王と彤で会盟して休戦し、この年に都を雍から咸陽に遷した。以後、衛鞅は法の規制を強め、小さな町や村をまとめて県とし、全国をおよそ31県に分け、税率を一律にし、度量衡を統一した。父子兄弟が一軒の家に同居することも禁じられ、耕作しやすいように畔や境界をつぶして田を広げた。改革の実施から4年目には、法を犯した者が鼻切りの刑に処せられたという。

紀元前343年には周の天子から覇者の称号を贈られ、翌年には諸侯が慶賀し、秦の公子が逢沢の会盟に参加した。紀元前341年に斉が馬陵で魏を破ると、衛鞅の進言で魏を攻め、会盟と見せかけて魏の公子卬を捕らえ、魏軍に大勝した。魏は斉に敗れたうえ秦にも敗れて国力が尽き、領土を日ごとに削られて、恵王は恐怖に襲われたという。そこで魏は河西の地を割いて和を結んだ。翌年、孝公は衛鞅に商・於の15邑を与えて列侯とし、以後彼は商君・商鞅と呼ばれた。紀元前338年に雁門を攻めて魏の武将魏錯を捕らえた年、孝公は亡くなり、太子の恵文君が跡を継いだ。

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