伝記
ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリは、1804年2月5日に、当時のスウェーデン王国領で現在のフィンランドにあたるヤコブスタードに生まれた詩人で、フィンランドの国民詩人とされ、北欧を代表する詩人の一人に数えられる。貧しい船長だった父ウルリクと母アンナの子で、生まれたとき父は航海に出ていたため、三歳になるまで父の顔を知らなかったという。きょうだいは五人で、妹のカロリーナも詩作に携わった。弟のヴィクトルとネストルは父の跡を継いで船乗りになった。作品は、当時フィンランド語がまだ文学の言語ではなかったため、スウェーデン語で書かれた。フィンランド語版の「我等の地」を訳したのは、詩人で翻訳家のカヤンデルである。1832年の『大鹿の狩人』、1836年の『ハンナ』、1841年の『クリスマスの夜』、1844年の『フィヤーラル王』なども著した。
ヴァーサとオウルで初期の学びを終えると、1823年にトゥルク王立アカデミー(現在のヘルシンキ大学)に入学し、古典語を学んだ。同期には、のちに哲学者・政治家となるスネルマンがおり、歴史家で作家のトペリウスとも親しくなった。1827年に学位を修め、その後は中部フィンランドのサーリヤルヴィなどで家庭教師として働いた。この土地での暮らしが、のちの作品『農夫パーヴォ』を生む着想になったとされる。1830年に最初の詩集『詩』を出した。1831年には、1827年の夏に知り合った作家のフレドリカ・テングストレームと結婚した。妻はトゥルクの大主教の姪にあたる。夫妻には8人の子が生まれたが、うち2人は幼くして世を去った。長女アンナ・カロリーナの早すぎる死はひどく悲しまれ、妻は以後、子を身ごもるたびに娘が生まれる覚悟をしていたという。彫刻家となったヴァルテルは第四子である。
ヘルシンキ大学で教え、新聞の編集にも携わったが、ラテン語と古代ギリシア語の教授の職を得られなかった。そこで1837年にポルヴォーへ移り、ギムナジウムでラテン語や修辞学の教師となった。ここで彼はフィンランドの農村の暮らしを主題とする詩を多く書いた。『農夫パーヴォ』では、霜で何度も不作に遭いながら、収穫が得られた年に隣人の不作を知ると、自分の穀物を半分分けようとする貧しい農夫の不屈の精神が描かれる。
代表作は、ロシアとスウェーデンの戦争(フィンランド戦争、1808年から1809年)を題材にした愛国的な叙事詩『ストール旗手物語』で、全部で35の歌からなり、1848年に第1部、1860年に第2部を著した。戦争に関わるあらゆる側面の人間性を重んじつつも、主にフィンランド人の勇気と英雄的な行いを称えている。冒頭の「我が祖国 母なる大地よ」は、のちにフィンランド語に訳され、フィンランドの国歌「我等の地」の歌詞になった。スウェーデンのノーベル賞詩人ヘイデンスタムは、彼を「スウェーデン語詩芸術のダ・ヴィンチ」と称えた。1863年に脳卒中で倒れて創作を絶たれ、寝たきりのまま、1877年5月6日にポルヴォーで没した。妻が彼のために作ったとされる菓子ルーネベリタルトは、誕生日の2月5日に向けて、いまもカフェで供される。誕生日の2月5日は、国旗を掲げて祝う日となっており、1948年には記念切手が、生誕200年の2004年には記念硬貨が作られた。
同じ年に亡くなった人物
- ユルバン・ルヴェリエ (1877年没)
- ゲオルク・アドルフ・エルマン (1877年没)
- クレイジー・ホース (1877年没)
- アンジェリカ・ヴァン・ビューレン (1877年没)
- ユリウス・リーツ (1877年没)
同じ地域に関係する人物
- アルヴァ・アールト (1976年没)
- エリック・ハインリッヒス (1965年没)
- Alexander von Nordmann (1866年没)
- ヴァイノ・シーカニエミ (1932年没)
- エドワード・ウェスターマーク (1939年没)