伝記
初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルは、1792年8月18日に生まれたイギリスの政治家、貴族である。第6代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルと最初の妻ジョージアナ・ビングの三男で、イングランド有数の富豪であり、17世紀以来ホイッグ党の政治家を輩出してきた家の出身であったが、三男のため一族の所領を継ぐ見込みはなかった。ウェストミンスター・スクールを経て、エディンバラ大学で学んだ。オックスフォード大学にもケンブリッジ大学にも在籍したことがない、イギリス史では珍しい経歴の首相の一人である。1813年に初当選し、1861年に叙爵されるまで、40年以上にわたり選挙区を替えながらホイッグ党の庶民院議員を務めた。改革派の政治家として、1820年代から議会改革や信仰による差別の撤廃に尽力した。
1830年に発足したグレイ伯爵内閣では陸軍支払長官となり、1831年から閣僚に加わった。1832年の第一次選挙法改正では、法案を起草した四人委員会の一人となり、庶民院への提出と説明も自ら行った。しかしこの改革への熱意が国王ウィリアム4世に疎まれ、1834年11月に首相メルバーン子爵がラッセルを庶民院院内総務に推した際には、国王が強く反対して政権の総辞職につながった。1835年の第二次メルバーン内閣では内務大臣兼庶民院院内総務、1839年には陸軍・植民地大臣となった。1842年にメルバーンが病に倒れると、庶民院ホイッグ党を指導するようになった。
1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉が起きると、独断で穀物法廃止を党の方針として発表した。ホイッグ党内の保護貿易派は反発し、組閣の大命を受けたものの、ホイッグ地主の協力が得られず組閣に失敗した。続投したピールは1846年5月に、ホイッグ党自由貿易主義者の協力を得て穀物法を廃止したが、これで保守党は分裂した。ラッセルは同月のうちにピール内閣を倒して、組閣の大命を受けた。第一次内閣では、1847年の工場法改正(十時間労働法)や、1848年の公衆衛生法を制定した。1850年にローマ教皇が新たな職を設けると、国教会を害するとして聖職者称号法を定めたが、これでカトリックのアイルランド議員との連携が切れ、1851年2月に庶民院の投票で敗れた。同年12月にフランスでルイ・ナポレオンがクーデタを起こすと、外相パーマストンが独断で支持したため、これを解任した。以後、ホイッグ党はラッセル派とパーマストン派に分かれた。1852年2月、民兵組織をつくる法案をめぐり、パーマストンの修正案が可決されて内閣は総辞職した。
同年12月に成立したアバディーン内閣に外相として入閣したが、選挙法改正の延期に不満を抱き、首相の座を欲してアバディーンを失脚させようとしたが失敗し、党内の支持を失った。そのため1855年1月にアバディーンが辞職した際には組閣に失敗し、パーマストンが首相となった。1859年6月にはパーマストンと和解し、自由党を結成した。第二次パーマストン内閣で外相を務め、1861年に伯爵に叙されて貴族院へ移った。生麦事件に端を発する薩英戦争では、武力行使に積極的な役割を演じた。1865年にパーマストンが没すると首相となったが、1866年に選挙法改正に失敗して総辞職した。1867年12月に76歳の高齢を理由に党首をグラッドストンに譲り、文筆を主とするようになった。1878年5月28日に死去した。哲学者の第3代ラッセル伯爵バートランド・ラッセルは孫にあたる。
同じ年に亡くなった人物
- チャールズ・ホッジ (1878年没)
- ポール・カレン (1878年没)
- カルロ・ブラジス (1878年没)
- Cirilo Antonio Rivarola Acosta (1878年没)
- アリス (ヘッセン大公妃) (1878年没)
同じ地域に関係する人物
- マーク・ボラン (1977年没)
- マリー・ドルレアン (1865-1909) (1909年没)
- エドウィン・チャドウィック (1890年没)
- ロバート・W・ポール (1943年没)
- リチャード・ドッドリッジ・ブラックモア (1990年没)