伝記
ジャック・オッフェンバックは、1819年6月20日にプロイセン王国ラインラント州のケルンで、ユダヤ系の音楽家の子として生まれ、のちフランスで活躍した作曲家、チェロ奏者である。1860年にフランスへ帰化した。オペレッタの原型をつくり、「オペレッタの父」と呼ばれ、ロッシーニは美しい旋律を次々に生み出す彼を「シャンゼリゼのモーツァルト」と評した。「オッフェンバック」は父の出身地であるオッフェンバッハ・アム・マインにちなむ名で、本名はヤーコプ・レヴィ・エーベルストという。幼少時は父から、のちに母からもチェロとヴァイオリンの手ほどきを受け、チェロでは名手の域に達した。
1833年にパリへ移住し、サロンでのリサイタルがきっかけで翌年に音楽の道に入った。外国人であるにもかかわらず、ケルビーニの推薦でパリ音楽院に入学を許されたが、学習態度は不真面目で、チェロのクラスに一年しか在籍せずに中退した。その後はアンビギュ・コミック座やオペラ・コミック座のオーケストラでチェロ奏者として働いた。フロマンタル・アレヴィに作曲を学び、これが縁で、その甥の台本作者リュドヴィク・アレヴィとのちに仕事を共にすることになる。最初の作品『パスカルとシャンボール』は1839年の初演で失敗し、その後の8年間は作曲をせず、ドイツやイギリスを巡業するチェロ奏者として生計を立て、「チェロのリスト」と評された。1844年にカトリックへ改宗してエルミニー・ダルカンと結婚し、5人の子をもうけた。1848年の二月革命を避けて一時ドイツに帰ったが、まもなく戻り、以後は終生パリに住んだ。コメディ・フランセーズの指揮者を務めたのち、オペレッタの作曲を再開した。
1855年のパリ万国博覧会の年、シャンゼリゼ通りに小さな劇場ブフ・パリジャン座を開いた。上演できる演目は人数や内容に厳しい制限があったが、成功を重ねるうちに条件は緩んでいった。1858年に『地獄のオルフェ』を初演し、これが最初の大成功となった。1864年にパリで劇場が自由化されると、「オッフェンバキアード」と呼ばれる黄金時代を迎えた。『美しきエレーヌ』(1864年)、『パリの生活』『青ひげ』(1866年)、『ジェロルスタン女大公殿下』(1867年)などが大当たりした。台本作者のメイヤック、アレヴィとともに「地獄のトリオ」と呼ばれ、第二帝政下で保護されて大衆の支持を得たが、普仏戦争の敗戦後は、ドイツ出身であることと第二帝政下の成功から、音楽でフランスの道徳を低下させたと糾弾された。
1873年にゲテ座の支配人となったが、実務の才には長けず、1874年に破産した。1876年には損失を埋め合わせるためフィラデルフィア万国博覧会を狙ってアメリカへ渡り、約40回の演奏会を開いて、旅行記『ある音楽家の旅行記』にまとめた。戦後の苦境にあっても、世を去るまでの10年間に40もの新作を発表し続けた。最晩年は破産と痛風に苦しめられながら、詩人E.T.A.ホフマンの狂気と幻想に自らとの相似を見て、『ホフマン物語』に取り組んだ。1880年10月5日に没し、この作品は完成を見ず、エルネスト・ギローの手に委ねられた。上流階級に評価された『ホフマン物語』により、オッフェンバック自身の評価も向上した。
同じ年に亡くなった人物
- クリスチャン・A・F・ペーテルス (1880年没)
- アドルフ=フェリックス・カルス (1880年没)
- オリバー・ウィンチェスター (1880年没)
- レオン・コニエ (1880年没)
- ジョゼ・パラーニョス (1880年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ガストン・ダルブー (1917年没)
- ポール・アンリ・ルコント (1934年没)
- フランソワ・クルーエ (1572年没)
- ドゥリープ・シング (1838年没)
- シャルル・カミュ (1768年没)